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大島城
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現実の城情報武田信玄が上伊那の拠点である高遠城と下伊那の拠点である飯田城の連絡・監視を目的として重視した、伊那郡の拠点城郭。 続きをクリックで表示 大島城は元々は在地領主であった大島氏の所領の南端に位置する小さな城だったが、天文23年(1554年)に下伊那を制圧した武田信玄が伊那郡統治の拠点とするために大島氏から接収し、最初の普請を行った。 元亀2年(1571年)3月17日には西上作戦に先立って伊那郡代の秋山虎繁(信友)が大島城の普請を命じられている。この時に普請役を定めた朱印状が「武田信玄下知状」で、陣馬奉行だった原昌胤が虎繁に宛てて「下伊那十九の郷民と知久・今田の二衆に大島城の普請役を命じる」と記している。 天正10年(1582年)2月に始まった信長による甲州征伐の際、大島城には日向玄徳斎が城将として在城し、信玄の弟である武田逍遥軒信綱(信廉)や小原丹後守、安中七郎らが加勢していた。しかし2月17日に織田信忠が大島城に攻め寄せた際、大島城兵は下伊那の飯田城が落城したことを聞いて逃亡したため空城となっており、戦わずに自落したことが『信長公記』に記されている。 このように大島城は普請や廃城の時期・経緯が文献史料で明らかとなっており、また元亀2年(1571年)の普請から天正10年(1582年)の廃城までの期間が11年と短いことから、伊那地域における戦国時代末期の拠点城郭の姿をほぼそのままの状態で今日に伝える貴重な城郭となっている。
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