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大宰府
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現実の城情報 Edit

大宰府の歴史は古く、宣化天皇元年(536年)、那津に官家を修造して有事に備えた那津官家(なのつみやけ)に軍事上の起源を求める向きがある。ただ、あくまで仮定でありもちろん確定ではない。
文献上初めて姿を現すのは『日本書紀』で、推古天皇17年(609年)に大宰府の前身である筑紫大宰(つくしたいさい)が百済僧の肥後国葦北漂着を報告したとある。
なぜこの地に政庁機能・国防の一端がこうして築かれたのか、それは東アジアとの外交の都合上どうしても筑紫に拠点が必要となったからだ。
倭国は4世紀からすでに新羅と戦い、百済との交流をもつ。永楽14年(404年)には高句麗軍と対戦して潰敗したうえに惨殺され無数の死者を出している。出兵や交易によって海外という存在を強く認識していた。
こうした交流の中、たとえ九州支配を盤石とするための地方行政機関が大宰府の初目的であったとしても、じょじょに外交の必要性に駆られ、施設に外交能力が付加されたことは古代の文献や遺構から容易に想像がつく。
また、新羅の海賊事件や13世紀の元寇を含めて顧みれば、東アジアの軍勢が上陸の足掛かりとして、真っ先にこの北部九州を選択するのは火を見るよりも明らかであった。国家防衛手段の確立も必須であったのだ。

所在地福岡県
現存状態土塁、礎石、門跡(堀立柱跡)
城郭構造国衙(国府)


コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 「宰(みこともち)」の意味って要ります?書こうかなーと思ってはいるんですけど、需要無かったらあんまり意味ないですし。 -- 2017-06-08 (木) 23:52:57
    • 知らない人多いと思うので書いても良いと思う -- 2017-06-09 (金) 00:04:36
    • ここでもいいし、雑学のページに書いてもいいかもね -- 2017-06-09 (金) 00:06:52
    • 一応試験的にここに記しますね。ご助言ありがとうございます。 -- 2017-06-09 (金) 00:25:01
  • 「古代官衙や山城を調べるにあたり、朝鮮の山城や王都を調べなければならないという大変さはありますが、それがまた楽しい」という人が増えますように。。 -- 2017-07-15 (土) 20:30:16
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*1 のちに防人と呼ばれる警備兵
*2 錦江を天然の要害とし、政庁やや下中央に錦城山城、北に扶蘇山城・青山城・北羅城、西に西羅城2つ、川を挟んだ西側奥に浮山城、東に青馬山城・東羅城、南に南羅城を抱きかかえていた。その他、土塁で政庁を囲んでおり、その構造を「羅城」と呼ぶ。


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