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河後森城
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現実の城情報伊予と土佐の国境付近に築かれた境目の城で、築城年代は不明。嵯峨源氏融流初代・源融の子孫であり、頼光四天王の筆頭として知られる渡辺綱を祖とする渡辺氏が建久7年(1196年)に入城し、以後は河原淵殿と称された渡辺氏代々の居城となった。 続きをクリックで表示 河後森城は四万十川の支流である広見川と、その支流である鰯川・堀切川に囲まれた標高171メートル、比高88メートルの独立丘陵上に築かれた。最高所の本郭を中心として西側には西第二曲輪から西第十曲輪までの9つの曲輪が、東側には東第二曲輪から第四曲輪に加えて古城部分の4つの曲輪を含めた7つの曲輪が、さらに南側には新城と称される曲輪群が連なっている。 そのなかで本郭の周囲には織豊系城郭の特徴を示す遺構や遺物が多く発見され、特に本郭西南部の虎口は中世期の堀切が改変されて石垣が構築されている。石垣は本郭の南東部にも一部に見られ、また本郭や西第二曲輪と西第三曲輪との間の堀切では瓦が大量に出土し、その多くが聚楽第で出土した金箔瓦と同様のものであった。そのため聚楽第が築かれた天正14年(1586年)以降の戸田勝隆時代あるいは藤堂高虎時代に河後森城は近世城郭として改修されたと考えられている。 河後森城は伊予と土佐との国境の境目の城として重視され、戦国時代から江戸時代初期にかけて大規模な城郭へと発展した過程を示す遺構が良好に残っていることから、平成9年(1997年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。
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