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江戸城 のバックアップ(No.37)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
江戸城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | |||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 無 印 ★ 7 | 0 | 50 | 2682 | 199 | 180 | 140 | 20 | 50 | 5364 | 358 | 324 | 252 | 20 | |
| 0 | 55 | 2751 | 209 | 190 | 140 | 21 | 55 | 5502 | 376 | 342 | 252 | 21 | ||
| 0 | 60 | 2818 | 220 | 200 | 140 | 22 | 60 | 5636 | 396 | 360 | 252 | 22 | ||
| 0 | 65 | 2886 | 231 | 209 | 140 | 23 | 65 | 5772 | 415 | 376 | 252 | 23 | ||
| 0 | 70 | 2953 | 261 | 220 | 150 | 24 | 70 | 5906 | 469 | 440 | 270 | 36 | ||
| 0 | 75 | 3021 | 273 | 229 | 150 | 25 | 75 | 6042 | 491 | 458 | 270 | 37 | ||
| 0 | 80 | 3675 | 284 | 254 | 150 | 26 | 80 | 7717 | 539 | 533 | 270 | 41 | ||
| 1 | 85 | 3157 | 273 | 248 | 140 | 27 | 85 | 6314 | 491 | 446 | 252 | 27 | ||
| 1 | 90 | 3225 | 284 | 258 | 140 | 28 | 90 | 6450 | 511 | 464 | 252 | 28 | ||
| 2 | 95 | 3291 | 295 | 268 | 140 | 29 | 95 | 6582 | 531 | 482 | 252 | 29 | ||
| 2 | 100 | 3359 | 331 | 278 | 150 | 30 | 100 | 6718 | 595 | 556 | 270 | 45 | ||
| 3 | 105 | 3426 | 342 | 288 | 150 | 31 | 105 | 6852 | 615 | 576 | 270 | 46 | ||
| 3 | 110 | 3494 | 353 | 298 | 150 | 32 | 110 | 6988 | 635 | 596 | 270 | 48 | ||
| 4 | 115 | 3561 | 364 | 306 | 150 | 33 | 115 | 7122 | 655 | 612 | 270 | 49 | ||
| 4 | 120 | 3630 | 375 | 316 | 150 | 34 | 120 | 7260 | 675 | 632 | 270 | 51 | ||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | |||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 改 壱 ★ 8 | 0 | 50 | 50 | |||||||||||
| 0 | 55 | 55 | ||||||||||||
| 0 | 60 | 60 | ||||||||||||
| 0 | 65 | 65 | ||||||||||||
| 0 | 70 | 70 | ||||||||||||
| 0 | 75 | 3577 | 322 | 272 | 150 | 25 | 75 | 7154 | 579 | 544 | 270 | 37 | ||
| 0 | 80 | 3657 | 336 | 283 | 150 | 26 | 80 | 7314 | 604 | 566 | 270 | 39 | ||
| 0 | 85 | 3738 | 349 | 295 | 150 | 27 | 85 | 7476 | 628 | 590 | 270 | 40 | ||
| 1 | 90 | 4552 | 404 | 325 | 150 | 28 | 90 | 9559 | 767 | 682 | 270 | 44 | ||
| 1 | 95 | 95 | ||||||||||||
| 2 | 100 | 100 | ||||||||||||
| 2 | 105 | 105 | ||||||||||||
| 3 | 110 | 110 | ||||||||||||
| 3 | 115 | 5055 | 476 | 386 | 150 | 33 | 115 | 10615 | 904 | 810 | 270 | 52 | ||
| 4 | 120 | 5156 | 490 | 398 | 150 | 34 | 120 | 10827 | 931 | 835 | 270 | 54 | ||
| 4 | 125 | 6938 | 581 | 487 | 150 | 35 | 125 | 14569 | 1103 | 1022 | 270 | 56 | ||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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| ▼ | 計略使用時の消費気についての一覧表 |
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実装までの長い道のり(クリックで表示)
☆7城娘は実装まで公式ツイッターの予告がないのが常だが、江戸城は立ち絵のフライング発表や、タイトルバナーで確認出来た事もあって、実装前から様々な憶測を呼んでいた。
そんな中、3周年公式生放送の新城娘紹介にて、千代田城、金鯱城と並んで正式に江戸城の名前付きでお披露目された。
ちなみに元の知名度の高さと、未実装ながらゲーム内で数多くの城娘に言及されていたことから、中には「江戸城はすでに実装済みだ」と勘違いする殿もいた様子。
投票やイメージ武器のあれこれ(クリックで表示)
初参加となる第五回人気投票では他の追随を許さぬ圧倒的得票差で堂々の1位を獲得した。流石、江戸城は格が違った!
後日イメージ武器の「葵御紋東照太刀」が実装。対象-1は有るものの待望の射程+50持ちで江戸城との相性は完璧。
攻撃力や射程内に攻撃+10を持っているためフラガラッハの上位互換として扱える。
なお同日に実装された一乗谷のイメージ武器「一乗飛燕小太刀」とも相性は良好。こちらも対象-1だが単体2連撃で速度アップも付いており「さやかの剣」の上位互換と言える。
CV担当:花澤香菜
| ▼ | ←クリックすると台詞一覧が表示されます。 |
※計略のない城娘の計略発動ボイスなど、通常流れないボイスはゲーム内の図鑑で聞くことができます。
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イラストレーター:Garuku
| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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【出張版】教えて!れきしクン! 第11陣にて公式解説あり。
【デザイン】
【特技・計略】
慶長度天守(クリックで表示)
徳川家康の命により慶長12年(1607年)に建てられた望楼型天守。
島根県松江市の松江歴史館で発見された絵図「江戸始図」によると本丸の中に大天守と小天守を多聞櫓で接続した「天守曲輪」を構成していた。
天守台の石垣は高さ20メートル程で、石垣を含めた天守の高さはおよそ68メートルに達した。
元和8年(1622年)本丸北側の濠を埋め足し一段下の北出丸と一体にする本丸拡張工事が行われた際に解体された。
東照神君(クリックで表示)
東照とは徳川家康の神号である東照大権現のこと。
神君とは神格化された君主の意。日本では江戸時代以降、特に家康を意味するが源頼朝を指すこともあり家康を東照神君、頼朝を鎌倉神君と呼び分ける。
【セリフ】
四神の加護を受けし城娘にして(クリックで表示)
古代中国の陰陽五行説では東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に「玄武の宿る山」がある「四神相応」の土地は栄えると考えられている。徳川家康の側近の天海僧正は東に平川(神田川)、西に東海道、北に麹町台地あるいは富士山、南に江戸湾のある江戸こそが幕府の本拠地とするのに相応しいと定めた。
ぐ~るぐる~、ぐ~るぐる~、『の』の字を描いてぐ~るぐるぅ♪(クリックで表示)
普通、城の縄張は総構えが中心部を取り囲む閉じた形をしているが、江戸城は天守台を起点に『の』の字型の螺旋形をしている。これにより城下町が拡大しても螺旋状に掘っていった濠を二重、三重にしながらぐるぐると延長することで縄張を無限に拡張することが可能になった。
ちなみに姫路城の縄張は江戸城とは逆向きの螺旋形をしている。
幕末までは一般的に江城(こうじょう)と呼ばれたとされるが、例として幕末志士(のちの福島県知事)・渡辺清による江戸城無血開城に関する史料『江城攻撃中止始末』がある。千代田城とも。
康正3年(1457年)、扇谷上杉家の家臣・太田資長(以下、法名の道灌で統一)が古河公方軍に備えるため武蔵国豊嶋郡江戸の江戸氏館跡に築いたとされるが、江戸城・河越城・岩槻城に城を築いたのは道灌の父・資清の献策によるものとも言う。
西股総生氏の『東国武将たちの戦国史 「軍事」的視点から読み解く人物と作戦』では、「(扇谷上杉)定正の本拠であった相模の糟屋館と、江戸城・河越城とを結ぶ弧状のライン」を「道灌ライン」と呼び、この三拠点の強化に意を注いだという。
しかしながら、早すぎた天才の意は定正の目には危険思想と映り、糟屋館に招かれた道灌は「当方滅亡(扇谷上杉家は滅亡するという意味)」と叫びながら暗殺され、定正は道灌の嫡男・資康も追放し江戸城を接収、のちに扇谷上杉朝良の隠居城となった。
「道灌ライン」は江戸城・河越城を奪取した北条氏綱に受け継がれ、これを守り通した北条氏康による河越夜戦で扇谷上杉朝定が討たれ、道灌の予言通り扇谷上杉家は滅亡した。
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道灌が築いた江戸城は、『寄題江戸城静勝軒詩序』『静勝軒銘詩並序』『左金吾源大夫江亭記』『梅花無尽蔵』などによると、城の構えは崖の上にあり、土塁が巡らされた子城(本城)・中城・外城の三重の曲輪からなり、堀には橋が架けられ、城の出入口は堅固な門で固められていたという。
城内には主殿にあたる静勝軒のほか、家臣の屋敷や物見櫓、厩、武器庫などの軍事施設に加え、泊船亭・含雪斎・香月斎などの文化施設も併設されていたとある。
これらは詩文中の記述であるため誇張した表現も含まれている可能性が高いとはいえ、道灌時代の江戸城をある程度推測することができる。
また当時の城郭は軍事力を運用する上での策源地という位置づけが基本であり、軍隊の動員・運用が単純な原理で行われていた当時の戦争において、城郭はその起点として機能していた。道灌時代の江戸城もまた、この機能に沿ったものだったのである。
扇谷上杉時代の江戸城は太田資高が城代を務めており、大永4年(1524年)に後北条家に寝返ってからも引き続き江戸城にあり、資高の子・康資もまた江戸地域最大の領主として後北条家の支配下で存続していた。
しかし永禄7年(1568年)に康資は後北条家に反旗を翻し、房総へと追われたため、江戸城と太田家との関係はここで途切れることとなった。
江戸城は後北条家の下で武蔵支配の重要拠点として機能し、武蔵豊島・荏原郡、下総葛西郡、武蔵多東・新座郡の一部を管轄する地域支配の拠点でもあった。
そしてこの江戸地域に知行を持つ家臣は、後北条家の家臣団のなかでも最大級の勢力を持つ江戸衆として組織された。
江戸衆の筆頭は後北条家中でも松田家・大道寺家と並ぶ三家老家の一つである遠山家であり、初代直景・二代綱景が江戸城代を務めていたが、永禄7年(1568年)の第二次国府台合戦で綱景が討死し、その子・政景が三代目の城代となったものの、実権は北条綱成の子・氏秀に移り江戸北条家として江戸城を支配した。
天正11年(1583年)には氏秀が死去し、その子・乙松丸も早逝したため江戸北条家は断絶し、江戸城には北条氏直に家督を譲って隠居した北条氏政が入った。
氏政は江戸城にあって「御隠居様」と呼ばれ、武蔵・房総方面の実質的な領国支配を進めていった。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、氏政は氏直とともに後北条家の本城である小田原城に籠城し、江戸城は豊臣方の浅野長吉に明け渡され、開城された。
後北条家時代の江戸城がどのようなものであったかは道灌時代よりも不明な点が多いが、秀吉に後北条家旧領の関八州を与えられた徳川家康が駿府城より移って江戸城に入った時の記録によると、本丸・二の丸・三の丸からなり、それぞれの間には深い空堀が設けられ、石垣は無く土塁が巡らされており、道灌時代の城を踏襲して改修が進められていたと考えられる。
一般にこの頃の江戸は、『岩渕夜話別集』に「一国と持ちたる大将の住たるにもあらず」、『見聞集』に「あさましき」とあるように荒れ果てた土地だったとされ、確かに当時の江戸城の規模は徳川の家臣団が住まうには手狭ではあったが、家康の入城以前より江戸湊は関東南部の要衝であり、家康の功績を誇張する向きも見られる。
近年の研究では後北条氏が江戸を重視し、江戸には陸路が集まり、東北と関東を結ぶ湊町として栄えていたと判明している。
江戸時代には江戸幕府の政庁となり、慶長・元和・寛永の3期にわたって大規模な天下普請が行なわれ、日本最大の面積を誇る城に発展した。
大奥と呼ばれる区画は慶長12年(1607年)より存在していたが、元和4年(1618年)に2代将軍・徳川秀忠により「大奥法度」が制定されると男子禁制となり、元和9年(1623年)に大奥の御年寄に任命された春日局により組織的に整備されていった。
江戸時代に江戸城で起きた有名な事件としては「桜田門外の変」「坂下門外の変」があるが、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた事件も江戸城松之大廊下で起きている。(この刃傷事件を含む赤穂事件の詳細は赤穂城を参照)
明治時代には東京奠都によって宮城(きゅうじょう)として天皇の住まいとなり、第二次大戦のあとに宮城の名が廃され皇居と呼ばれるようになったが、昭和35年(1960年)に「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されて現在に至る。
| 所在地 | 東京都千代田区千代田 |
| 現存状態 | 現存櫓・門、石垣・土塁・堀 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城または平山城 |
徳川氏時代の江戸城(クリックで表示)
慶長・元和・寛永と3期にわたって大規模な天下普請が行われ、徳川家康が築いた当時は大坂城の豊臣秀頼が健在で、戦国時代の城造りを継承した防御力を重視した城だったのが、大阪の陣で秀頼を滅ぼし平和な時代が訪れたことで、防御力よりも利便性を重視した増改築が進められていった。
このうち家康が築いた慶長期江戸城に関しては『慶長江戸絵図』や『別本慶長江戸絵図』に描かれているもののその精度は不十分なものだったが、松江城下の松江歴史館蔵『極秘諸国城図』に収められた『江戸始図』が平成29年(2017年)に発見・公表され、慶長期江戸城を正確に描いている絵図として注目を集め、江戸城の全貌を解明する研究が進んでいる。
徳川氏時代の江戸城は、内堀がめぐる内側の本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上からなる内郭と、内側と外堀との間に広がる武家地・寺社地・町人地からなる外郭とに大きく分けられる。
家康の時代では天正18年(1590年)に江戸城に入ってから整備が進められ、後北条氏時代の本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たに本丸とし、さらに二の丸を築造、城下を流れる平川の流路を東へ移し、江戸前島の付け根を東西に横断する道三堀を開削し、さらに城の周囲の河川をせき止めて千鳥ヶ淵や牛ヶ淵が造られた。
その後文禄3年(1592年)以降は豊臣秀吉による朝鮮出兵で肥前名護屋城に在陣し、また伏見城の普請にも加わったため江戸城の整備は中断された。
関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府初代将軍となった家康は、慶長9年(1604年)からの第一次天下普請で本丸・北の丸の工事を本格化させ、日比谷入江を埋め立てて武家地や町人地を整備した。
本格的な普請は慶長11年(1606年)からの第二次天下普請で、築城の名手として知られる藤堂高虎が縄張を担当し、本丸を中心に内郭の大改修が進められた。
この時期の江戸城を描いたのが『江戸始図』で、城郭考古学者の千田嘉博氏が、歴史研究家の森岡知範氏との共著『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』で慶長期江戸城の様相を述べている。
『江戸始図』で注目されるのは天守群で、江戸城では大天守の北側に付櫓があり、櫓門を挟んで北東端に小天守が位置し、そこから西南に渡櫓が続いて北西小天守とつながり、さらに渡櫓が南に伸びて南西小天守に続き、櫓門で大天守と結ばれており、姫路城や和歌山城、伊予松山城と同様に連立式天守による天守曲輪が構成された。
櫓門が配された天守曲輪の出入口は、外枡形になるように石垣が食い違いに配され、徹底的に防御力が強化されていた。
慶長期江戸城の本丸南側には、虎口の外側に方形空間を設ける外枡形が五段にわたって連なっていた。外枡形は安土城の黒金門や大坂城の桜田門に見られ、熊本城でも五連続の外枡形が設けられた。
熊本城はしばしば過剰なほどの防備を備えた城として紹介されるが、同じく五連続外枡形を備えた江戸城もまた、過剰なほど厳重な守りだったといえる。
五連続外枡形とは反対側の本丸北側には、三連の丸馬出が構えられた。丸馬出は武田氏が得意とした築城技術であり、諏訪原城などの発掘調査によって、家康もまた丸馬出を用いていたことが判明している。
このように慶長期江戸城は石垣や外枡形など西日本で発達した築城技術と、丸馬出などの東日本で発達した築城技術が融合した、東西の築城技術の集大成ともいえる城だった。
元和2年(1616年)に家康が死去すると、その子で江戸幕府2代将軍となった徳川秀忠は江戸城の普請も引き継ぎ、城の北東部の神田山を開削し平川の流れを移して神田川とした。
伝承によると秀忠が仙台藩主の伊達政宗と囲碁を打ちつつ江戸城をどう攻めるか雑談をした際、政宗が本郷から攻めれば江戸城を落とせると言ったのがこの工事の発端だという。
工事は旗本の阿倍正之を奉行として幕府の主導で始められ、元和6年(1620年)に始まる第三次天下普請で本格的に神田川の整備が進み、北の丸が石垣化された。
こうして秀忠の時代で本郷台地の先端部が削られて江戸城の外郭を守る外堀の一部が造られることとなった。
元和9年(1623年)には家康が築いた慶長期天守が解体され新たな天守が築かれたが、こちらは慶長期のような連立式天守ではなかったとされる。
寛永5年(1628年)からは第四次天下普請が行われ、内郭の門が整備されるとともに、見附の工事が本格化した。
見附は元々は木戸や関所など見張りのいる番所を指す言葉で、江戸城は枡形の構造とした城門を見附と呼称して見張りを置いて警備していた。
現在でも四谷見附や赤坂見附などの地名として残っており、甲州街道が通っていた四谷見附では枡形の一部が発見され、赤坂見附では枡形の一部が復元されている。
秀忠は寛永9年(1632年)に死去し、その子で江戸幕府3代将軍の徳川家光もまた、家康・秀忠と続いてきた江戸城の普請を引き継いだ。
寛永13年(1636年)には第五次天下普請が始まり、この時に築かれた寛永期天守は図面が残されていることでその規模や構造が詳細にわかっており、五重五階の層塔型天守には慶長期天守のような付櫓や小天守は連結されない独立式天守だった。
この天下普請は江戸城の総仕上げともいえる大工事で、秀忠の時代には城の北西部である麹町台地側に防衛線が無かったのが、この天下普請の中心事業として進められた外郭工事によって補強された。
こうして江戸城はその最大の防御構造といえる惣構・外堀が整備され、家康・秀忠・家光と三代にわたって続けられてきた大事業が完成した。
その後江戸城は明暦3年(1657年)の明暦の大火で西の丸を残して全焼し、万治元年(1658年)から再建工事が行われたが、天守は再建されなかった。
万治3年(1660年)には江戸城の外堀、神田川御茶ノ水の拡張工事を行ったのが最後の天下普請となり、その後も殿舎建築や石垣補修などが継続的に行われ、城下も災害に備えた火除け地や道路の拡張などに力を入れて市域を拡大していき、明治維新に至った。
【過去ログ】
Vol1 |
Published by (C)DMMゲームズ
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