江戸城 のバックアップの現在との差分(No.2)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
江戸城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
季節衣装☆7[正月]江戸城が2022年12月に実装された。
キャラクターボイスCV担当:花澤香菜
画像イラストレーター:Garuku
改壱
城娘の元ネタ情報【出張版】教えて!れきしクン! 第11陣にて公式解説あり。 【デザイン】 【特技・計略】 慶長度天守(クリックで表示) 徳川家康の命により慶長12年(1607年)に建てられた望楼型天守。 東照神君(クリックで表示) 東照とは徳川家康の神号である東照大権現のこと。 【セリフ】 四神の加護を受けし城娘にして(クリックで表示) 古代中国の陰陽五行説では東に「青龍の宿る川」が流れ、西に「白虎の宿る道」が走り、南に「朱雀の宿る水」、北に「玄武の宿る山」がある「四神相応」の土地は栄えると考えられている。徳川家康の側近の天海僧正は東に平川(神田川)、西に東海道、北に麹町台地あるいは富士山、南に江戸湾のある江戸こそが幕府の本拠地とするのに相応しいと定めた。 ぐ~るぐる~、ぐ~るぐる~、『の』の字を描いてぐ~るぐるぅ♪(クリックで表示) 普通、城の縄張は総構えが中心部を取り囲む閉じた形をしているが、江戸城は天守台を起点に『の』の字型の螺旋形をしている。これにより城下町が拡大しても螺旋状に掘っていった濠を二重、三重にしながらぐるぐると延長することで縄張を無限に拡張することが可能になった。 現実の城情報幕末までは一般的に江城(こうじょう)と呼ばれたとされるが、例として幕末志士(のちの福島県知事)・渡辺清による江戸城無血開城に関する史料『江城攻撃中止始末』がある。千代田城とも。 続きをクリックで表示 道灌が築いた江戸城は、『寄題江戸城静勝軒詩序』『静勝軒銘詩並序』『左金吾源大夫江亭記』『梅花無尽蔵』などによると、城の構えは崖の上にあり、土塁が巡らされた子城(本城)・中城・外城の三重の曲輪からなり、堀には橋が架けられ、城の出入口は堅固な門で固められていたという。 扇谷上杉時代の江戸城は太田資高が城代を務めており、大永4年(1524年)に後北条家に寝返ってからも引き続き江戸城にあり、資高の子・康資もまた江戸地域最大の領主として後北条家の支配下で存続していた。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、氏政は氏直とともに後北条家の本城である小田原城に籠城し、江戸城は豊臣方の浅野長吉に明け渡され、開城された。 江戸時代には江戸幕府の政庁となり、慶長・元和・寛永の3期にわたって大規模な天下普請が行なわれ、日本最大の面積を誇る城に発展した。
徳川氏時代の江戸城(クリックで表示) 徳川氏時代の江戸城慶長・元和・寛永と3期にわたって大規模な天下普請が行われ、徳川家康が築いた当時は大坂城の豊臣秀頼が健在で、戦国時代の城造りを継承した防御力を重視した城だったのが、大阪の陣で秀頼を滅ぼし平和な時代が訪れたことで、防御力よりも利便性を重視した増改築が進められていった。 徳川氏時代の江戸城は、内堀がめぐる内側の本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上からなる内郭と、内側と外堀との間に広がる武家地・寺社地・町人地からなる外郭とに大きく分けられる。 その後文禄3年(1592年)以降は豊臣秀吉による朝鮮出兵で名護屋城?に在陣し、また伏見城の普請にも加わったため江戸城の整備は中断された。 その後文禄3年(1592年)以降は豊臣秀吉による朝鮮出兵で肥前名護屋城に在陣し、また伏見城の普請にも加わったため江戸城の整備は中断された。 関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府初代将軍となった家康は、慶長9年(1604年)からの第一次天下普請で本丸・北の丸の工事を本格化させ、日比谷入江を埋め立てて武家地や町人地を整備した。 本格的な普請は慶長11年(1606年)からの第二次天下普請で、築城の名手として知られる藤堂高虎が縄張を担当し、本丸を中心に内郭の大改修が進められた。 この時期の江戸城を描いたのが『江戸始図』で、城郭考古学者の千田嘉博氏が、歴史研究家の森岡知範氏との共著『江戸始図でわかった「江戸城」の真実』で慶長期江戸城の様相を述べている。 『江戸始図』で注目されるのは天守群で、江戸城では大天守の北側に付櫓があり、櫓門を挟んで北東端に小天守が位置し、そこから西南に渡櫓が続いて北西小天守とつながり、さらに渡櫓が南に伸びて南西小天守に続き、櫓門で大天守と結ばれており、姫路城や和歌山城、伊予松山城と同様に連立式天守による天守曲輪が構成された。 元和2年(1616年)に家康が死去すると、その子で江戸幕府2代将軍となった徳川秀忠は江戸城の普請も引き継ぎ、城の北東部の神田山を開削し平川の流れを移して神田川とした。 元和9年(1623年)には家康が築いた慶長期天守が解体され新たな天守が築かれたが、こちらは慶長期のような連立式天守ではなかったとされる。 元和9年(1623年)には家康が築いた慶長期天守が解体され新たな天守が築かれたが、こちらは慶長期のような連立式天守ではなかったとされる。 寛永5年(1628年)からは第四次天下普請が行われ、内郭の門が整備されるとともに、見附の工事が本格化した。 寛永13年(1636年)には第五次天下普請が始まり、この時に築かれた寛永期天守は図面が残されていることでその規模や構造が詳細にわかっており、五重五階の層塔型天守には慶長期天守のような付櫓や小天守は連結されない独立式天守だった。 寛永13年(1636年)には第五次天下普請が始まり、この時に築かれた寛永期天守は図面が残されていることでその規模や構造が詳細にわかっており、五重五階の層塔型天守には慶長期天守のような付櫓や小天守は連結されない独立式天守だった。 この天下普請は江戸城の総仕上げともいえる大工事で、秀忠の時代には城の北西部である麹町台地側に防衛線が無かったのが、この天下普請の中心事業として進められた外郭工事によって補強された。 こうして江戸城はその最大の防御構造といえる惣構・外堀が整備され、家康・秀忠・家光と三代にわたって続けられてきた大事業が完成した。 その後江戸城は明暦3年(1657年)の明暦の大火で西の丸を残して全焼し、万治元年(1658年)から再建工事が行われたが、天守は再建されなかった。 コメント【過去ログ】 |
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