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安土城 のバックアップ(No.30)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
安土城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | |||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 無 印 ★ 7 | 0 | 50 | 1636 | 145 | 96 | 240 | 20 | 50 | 3272 | 261 | 192 | 432 | 30 | |
| 0 | 55 | 1677 | 151 | 102 | 240 | 21 | 55 | 3354 | 273 | 204 | 432 | 31 | ||
| 0 | 60 | 1719 | 160 | 106 | 240 | 22 | 60 | 3438 | 289 | 212 | 432 | 33 | ||
| 0 | 65 | 1760 | 168 | 112 | 240 | 23 | 65 | 3520 | 302 | 224 | 432 | 34 | ||
| 0 | 70 | 1802 | 177 | 117 | 240 | 24 | 70 | 3604 | 318 | 234 | 432 | 36 | ||
| 0 | 75 | 1843 | 183 | 123 | 240 | 25 | 75 | 3686 | 330 | 246 | 432 | 37 | ||
| 0 | 80 | 2083 | 242 | 127 | 250 | 26 | 80 | 4166 | 435 | 254 | 450 | 39 | ||
| 1 | 85 | 1926 | 200 | 134 | 240 | 27 | 85 | 3852 | 360 | 268 | 432 | 40 | ||
| 1 | 90 | 1966 | 207 | 139 | 240 | 28 | 90 | 3932 | 374 | 278 | 432 | 42 | ||
| 2 | 95 | 2007 | 215 | 145 | 240 | 29 | 95 | 4014 | 388 | 290 | 432 | 43 | ||
| 2 | 100 | 2050 | 224 | 149 | 240 | 30 | 100 | 4100 | 403 | 298 | 432 | 45 | ||
| 3 | 105 | 2091 | 232 | 155 | 240 | 31 | 105 | 4182 | 417 | 310 | 432 | 46 | ||
| 3 | 110 | 2131 | 238 | 160 | 240 | 32 | 110 | 4262 | 429 | 320 | 432 | 48 | ||
| 4 | 115 | 2173 | 247 | 166 | 240 | 33 | 115 | 4346 | 445 | 332 | 432 | 49 | ||
| 4 | 120 | 2214 | 256 | 170 | 240 | 34 | 120 | 4428 | 461 | 340 | 432 | 51 | ||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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詳細(クリックで表示)
2017年4月11日
2021年12月21日
あづにゃん(クリックで表示)
第三回名城番付の会話パートにて丹波亀山城に「キミはあづにゃん―――とかって呼ばれてもイヤじゃないのか!?」と問われた。
この際、安土城は「是非もない。汝がそう呼びたいのならば構わぬ。」とあっさり許可し、殿達の間にも浸透しつつある。
さらに2018年12月28日に実装された[正月]姫路城からは所領セリフにおいて音声付であづにゃん呼びが実現してしまった。
極めつけとして後に実装された[バレンタイン]安土城では音声付きで自称している。もっともそちらはそれ以上の衝撃発言が満載なのだが。
CV担当:大原さやか
| ▼ | ←クリックすると台詞一覧が表示されます。 |
※計略のない城娘の計略発動ボイスなど、通常流れないボイスはゲーム内の図鑑で聞くことができます。
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イラストレーター:冬野ユウキ
| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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【出張版】教えて!れきしクン! 第09陣にて公式解説あり。
【デザイン】
【特技・計略】
敦盛(クリックで表示)
「人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか」
信長の辞世の句として有名な一節。
安土城の計略名として引用されている。
元は信長が好んで舞ったとされる幸若舞の演目のひとつ『敦盛』の一節である。
なお、人の世の儚さを謡ったものであり、当時の平均寿命が50年と謡ったものではない。
また、「人間」は「じんかん」と読むのが正しいとされることもあるが、元々は仏教用語で「にんげん」と読んだものが世間では「じんかん」とされたのである。
さらに、「化天」は六欲天の第五位の世、「下天」は六欲天の最下位の世のことで意味が異なり、本来の幸若舞においては「化天」であったが、『信長公記』では「下天」としている。
それに従えば、下天の一昼夜は人間界の50年にあたるため、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になるが、化天ならば一昼夜は人間界の800年にあたるため、人の世はさらに短いことになる。
第六天魔王(クリックで表示)
特技名になっている「第六天魔王」は、武田信玄が「天台座主沙門信玄」と名乗った書状に対し、皮肉を込めて返した書状で織田信長が自称したことで知られる。
そもそもの意味は仏教用語で、欲天と呼ばれる天界の下層部の六層の最上天が他化自在天こと第六天であり、その第六天のトップに君臨するのが第六天魔王である。
改築後の特技名にある「波旬」とはサンスクリット語のパーピヤス(悪意あるもの)の音訳で、釈尊が瞑想に入ったとき、悟りを得るのを妨げようとした魔王マーラ・パーピヤスと同一視される。
いわゆる「煩悩」であり、仏道修行者はこれに打ち克つことで境涯を高めることができるとされ、仏教においてはこの魔王は滅ぼすべき敵ではなく、乗り越えるべき試練とされている。
比叡山復興を宣言する信玄に対し、それを妨げてやると宣戦布告する意味があったものと思われる。
なお、単に信長が自称しただけと思われがちであるが、本能寺の変の翌月に書かれ、平成29年(2017年)に発表された『當寺御開山御真筆』でも「六天ノ魔王」と称されるとともに安土城の天主の美的センスも否定され、信長は「黒鼠の清盛の再来」と痛烈に批判されている。
【セリフ】
信貴山城からの抗議?(クリックで表示)
安土城の天守は、信貴山城の城主である松永久秀が築城した多聞山城の天守を参考にしたという説がある。
信貴山城のセリフにおいて「ファッションを真似ている」という旨の抗議を受けていたりするのだが、おそらくはこの説が元ネタと思われる。
…のだが、両者の御嬢姿を比較しても類似点を探す方が難しかったりするのは、いわゆる大人の都合であろうか。
所領内の城娘らによる相撲大会を開くぞ(クリックで表示)
織田信長は元亀元年(1570年)に安土城下の常楽寺に力自慢の猛者を集めて相撲大会を開いたと伝えられている。この故事が基で安土は「近代相撲発祥の地」とされている。
平成26年(2014年)まで安土城最寄りのJR安土駅前に土俵と相撲やぐらがあったが、駅周辺整備事業に伴い撤去された。代わりに整備事業の完了に合わせ二人の力士をかたどった石像が平成31年(2019年)に設置された。
鳴け!さもなくば滅びよ!(クリックで表示)
「美しい鳴き声を聞くために飼っていたホトトギスが鳴かなかったら、信長、秀吉、家康の三人の天下人はどういう反応をするか」という川柳が由来と思われる。(実際に本人たちがそのような句を詠んだわけではない。)
信長の場合は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」であり、敵対者を悉く滅ぼしてきたその苛烈な気性をイメージしてのものと思われる。
ちなみに秀吉、家康の場合は間の七音が「鳴かせてみせよう」「鳴くまで待とう」となる。
金平糖でも食べるか?(クリックで表示)
宣教師・ルイス=フロイスの記録によると、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年の永禄12年(1569年)4月、二条城(公方様御構)で信長に謁見したフロイスがロウソクなどと共にガラス瓶に入った金平糖を献上したという。
二条城の天主や門は義昭の京都追放後に解体され安土城に転用された。
織田信長による安土城の築城は天正4年(1576年)正月から天正7年(1579年)5月のことで、目賀田城の跡地である琵琶湖東岸の安土山(標高199メートル)に天主が完成した。
安土城の台詞に近代城郭の手本などと謳われているとあるように、安土城は織豊系城郭の先駆となった。
信長は諸大名及び家臣のみならず、町民百姓にまで自ら100文の拝観料を取って見学させたと言い、天主は懸け造りの構造でテラスから目の前の広場を見下ろせたとされる。
なお安土城の場合、天守に相当する建物を天主と呼ぶが、岐阜城の麓にも天守とは別に天主と呼ばれる御殿が存在した。また、明治の文豪・芥川龍之介は「天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物である」としている。
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天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が死去した後はいったん明智光秀が入城するが、光秀が羽柴秀吉との戦いに敗れた後、6月14日から15日にかけて天主をはじめとする主郭部が炎上、焼失した。
放火したのは明智光秀の家臣・明智秀満という説があるが、秀満は既に安土城を出て坂本城にいたので誤りである。
また、ルイス・フロイスは「放火したのは織田信雄(三介殿)で、馬鹿なので理由もなくやった」と推測しているが、明確な根拠はない。混乱に乗じた略奪目的の一揆勢が犯人と見るのが妥当とされる。
いずれにせよ炎上によって安土城が廃城となったわけではなく二の丸を中心に機能し、織田信孝、羽柴秀吉、織田信雄、三法師(織田秀信)が相次いで安土城に入城している。
安土城への入城は自分が信長の後継者であることをアピールする行為で、織田氏の天下の象徴としての安土城は健在だった。安土城入手時のセリフはおそらくこれを表現している。
天正13年(1585年)、秀吉は近江国割を行い、近江八幡城を築かせて甥の秀次を入れ、この年以降に安土城に関する記録が見られなくなることから、安土城とその城下町はこの段階で機能を失ったと考えられる。
このように城が存続した期間は短く、残された資料もほとんどない。信長が狩野永徳に描かせ、天正9年(1581年)に巡察師ヴァリニャーノに贈られ、天正13年(1585年)3月に天正遣欧使節がローマ法王グレゴリオ13世に献上した『安土城之図』は現存する可能性があるが発見されていない。
『安土城之図』は献上された後、少なくとも7年間はバチカン宮殿内の展示室「地図の画廊」に展示されていたことが確認されたが、その後の消息は不明となっている。
余談だが、安土城にてヴァリニャーノが信長との謁見の際に連れていた黒人の従者は信長に珍しがられ、当初は墨でも被っていて黒い肌なのだろうと疑われたが、洗い流しても一向に色が落ちることはなく、これを気に入った信長は黒坊主と称された黒人の従者を召し抱え、弥助と名付けて本能寺の変の際にも側近として置いていた。
変により本能寺から逃れたのちは織田信忠が籠る二条御所に駆けつけるも明智光秀の軍に捕らえられたが、光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として命を取ることはしなかったという。
さらに余談だが、信長は大の相撲好きでもあり、安土城下で行なった相撲大会で互角の勝負を演じた力士2名にそれぞれ、東から土俵入りしたことから「東」、西から土俵入りしたことから「西」という名字を与えたという。
一説には相撲が東と西に分かれたのはこのことが起源であるとされ、実際に現在も安土城下には二人の子孫が東姓と西姓を名乗り暮らしている。
現在の安土城は、大手道や石垣の一部が復元されている。かつては琵琶湖に突き出した半島状であり水運支配の要であった安土城だが、埋め立てが進んだことで周囲は田畑や住宅地となり、湖岸は彼方にある。
復元された天主は、「信長の館」と「伊勢忍者キングダム」の2箇所にある。詳しい資料が未発見なのでいずれも想像による復元だが、八角形の構造物と信長好みの豪華絢爛な内装はユニークであり他に類を見ない。
| 所在地 | 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦・東近江市能登川町きぬがさ |
| 現存状態 | 曲輪、堀、石垣、土塁など |
| 城郭構造 | 平山城(山城・水城) |
城郭構造(クリックで表示)
安土山は天主のある峰を中心とする山と、北に長く伸びる尻尾のような山並みに分けられるが、特に天主が築かれた山の方では表も裏も至る所に曲輪が設けられ、信長の家臣たちが屋敷を構えており、山の上と下とは完全に一体化している。
安土城に限らず、城郭分類の常として平山城か山城かで見解が割れる事があるが、山城から平山城への歴史的転換点ともいえる安土城においてはその分類の差は顕著である。
織豊系城郭研究の第一人者である奈良大学の千田嘉博氏も平成28年(2016年)のテレビ番組『趣味どきっ!』で「町に近い低い山を使った平山城だった。町とお城が一つになっている近世城下町の原型」と説明している。
その他、千田嘉博氏は『城から見た信長』では、滋賀県安土城郭調査研究所による山麓から山腹にかけた大手道が本丸の正面となる「黒金門」につながっていなかったという説を強く批判した上で、正親町天皇の行幸計画も容易に実行できる設計だったとしているが、小和田哲男氏も『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』で、近江八幡城と比較して「安土城のような平山城の場合は、山上との往復がそう大変ではなく」と、往復の容易さが平山城か否かの判断基準であるかのように説明している。
一方で、縄張研究者の中井均氏は『城館研究の手引き』で「山上部と山麓部の二元構造は山城として扱うべき」としているが、山上部と山麓部が一体化した安土城について『歴史群像 <織田信長と戦国時代>地の利を生かせ! 織田信長の築城計画』では「信長は、配下には琵琶湖岸に平城(湖の城)を築かせたが、自らはけっして平地に居城をかまえなかった」と特異な例としており、自著『近江の山城ベスト50を歩く』において安土城を山城として挙げている。
同様に、縄張研究者の西股総生氏は『「城取り」の軍事学』の中で比高が100メートルを超えると明らかに山城としており、「安土城も、比高が110メートルほどあるから山城だ」と述べ、鈴木眞哉氏も『戦国時代の大誤解』の中で鉄砲普及後にも建てられた比高が100メートル以上の山城のひとつとして安土城の名を挙げるなど、研究者の間でも統一見解には至っていない。
また、安土山の北側半分は一部が埋め立てられる前の琵琶湖の内湖に直結し、三方が湖で囲まれているほか、堀には湖水からひいた水を活用していた。
城下には港も整備され、京都につながる大津、岐阜につながる佐和山にも船で高速移動が可能な水城としての側面もあった。
なお安土城の台詞に穴太衆が登場するが、信長が石垣造りに用いたのは馬淵の石工衆だったと記録されている。また『明良洪範』には穴太衆も安土城の築城に参加したとあるが、確かな史料による裏付けはない。
そもそも「穴太衆」という言葉は江戸時代の初出であり、石垣の積み方も多様であることから、近在の馬淵衆や岩倉衆、あるいは全国から技術者集団を呼び集めたというのが実態だと推測される。
百々橋なる橋があったことから、築城の名手であり、特に石垣普請に優れたとされる百々綱家が築城に関わっていたとの説もある。
さらに、安土城の台詞には日の本において初めて天守を構えたとあるが、近年の史料研究では松永久秀の信貴山城で日本初の天守が築かれ、安土城の天守は同じく久秀の多聞山城を参考にしているとされるため、安土城の天守が日本初という説は否定されている。
しかしながら、信貴山城や多聞山城にあったとされる天守の遺構は発見されておらず、発掘調査の結果においては疑問が持たれるところでもある。天守台の遺構が残り、安土城よりも前に天守を構えた可能性がある城としては、織田信雄の田丸城がある。
天主跡は発掘調査によって全ての礎石が確認され、このことは長く不可解だった『信長公記』で「東西十七間、南北二十間」とされた天主の大きさよりも実際の天主台が小さいという疑問を解消した。
つまり礎石の上に柱を立て、天主台からはみ出した懸け造りの構造だったということである。
これは狩野永徳の『安土城之図』を模写したフィリップス・ファン・ウィンゲの絵でも裏付けられ、『信長公記』が記した「御白州」という天守前の広場を見下ろせる懸け造りの天主テラスがあったと考えられる。
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