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和歌山城 のバックアップ(No.24)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
和歌山城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | ||||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 改 壱 ★ 7 | 0 | 50 | 4498 | 282 | 244 | 150 | 20 | 50 | 9445 | 535 | 512 | 270 | 32 | ||
| 0 | 55 | 4618 | 295 | 256 | 150 | 21 | 55 | 9697 | 560 | 537 | 270 | 33 | |||
| 0 | 60 | 4738 | 309 | 271 | 150 | 22 | 60 | 9949 | 587 | 569 | 270 | 35 | |||
| 0 | 65 | 4860 | 321 | 283 | 150 | 23 | 65 | 10206 | 609 | 594 | 270 | 36 | |||
| 0 | 70 | 4980 | 336 | 297 | 150 | 24 | 70 | 10458 | 638 | 623 | 270 | 38 | |||
| 0 | 75 | 5101 | 350 | 310 | 150 | 25 | 75 | 10712 | 665 | 651 | 270 | 40 | |||
| 0 | 80 | 5222 | 363 | 324 | 150 | 26 | 80 | 10966 | 689 | 680 | 270 | 41 | |||
| 1 | 85 | 3426 | 260 | 247 | 140 | 27 | 85 | 6852 | 468 | 456 | 238 | 27 | |||
| 1 | 90 | 3500 | 271 | 256 | 140 | 28 | 90 | 7000 | 487 | 473 | 238 | 28 | |||
| 2 | 95 | 3572 | 281 | 266 | 140 | 29 | 95 | 7144 | 505 | 492 | 238 | 29 | |||
| 2 | 100 | 3646 | 292 | 276 | 140 | 30 | 100 | 7292 | 525 | 510 | 238 | 30 | |||
| 3 | 105 | 3720 | 301 | 284 | 140 | 31 | 105 | 7440 | 541 | 525 | 238 | 31 | |||
| 3 | 110 | 3793 | 312 | 295 | 140 | 32 | 110 | 7586 | 561 | 545 | 238 | 32 | |||
| 4 | 115 | 3866 | 323 | 304 | 140 | 33 | 115 | 7732 | 581 | 562 | 238 | 33 | |||
| 4 | 120 | 3940 | 333 | 314 | 140 | 34 | 120 | 7880 | 599 | 580 | 238 | 34 | |||
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地形ボーナス込みステータス
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性能の変遷の詳細(クリックして表示)
CV担当:津田美波
| ▼ | ←クリックすると台詞一覧が表示されます。 |
※計略のない城娘の計略発動ボイスなど、通常流れないボイスはゲーム内の図鑑で聞くことができます。
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イラストレーター:シロジ
| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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和歌山市の中心部に位置する標高48.9メートルの虎伏山に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。
名古屋城・水戸城と同じく徳川御三家の居城で、姫路城・伊予松山城とともに三大連立式平山城に数えられる。
豊臣秀吉の弟・秀長は、天正13年(1585年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。
当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行ない、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた際に和歌山と改められている。
当時の和歌山は「岡」「湊」と呼ばれる2つの湊を有し、これらを押さえる和歌山城は秀吉が天下統一事業や各地での城郭・寺社の造営を進めるなかで、人や物の結節点として豊臣政権下で政治的・経済的に重要な城として位置づけられていた。
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秀長が大和郡山城に移ると和歌山城は家臣の桑山重晴が竹田城から移って城代を務め、和歌山城は大和郡山城を中心とする秀長の領国支配の一角を担った。
重晴は入城後すぐに和歌山城の改修に着手し、本丸・二の丸を整備するとともに、天守の改築も行ったとの記録が残っている。また城の東南麓の平地に枡形の曲輪を設けて大手門が置かれた。この大手門は現在の岡口門の位置にあり、当時の和歌山城は東向きの構えで城下町も東から形成されていった。
織豊系城郭で多く見られる転用石が用いられているのもこの時期の和歌山城の石垣の特徴で、供養塔や寺院の転用石が特に本丸でよく使われている。
重晴の紀伊支配の様子がうかがえる史料は極めて少なく、『旧記雑録』には九州征伐に従軍したとの記述があり、『多聞院日記』には大和の領国支配に携わったという記述があるなど、紀伊の支配に専念できる状況にはなかった。
秀長の死後、大和郡山城主が豊臣秀保、増田長盛と移っていくなかで、重晴は和歌山城を拠点に紀伊での基盤を強化していった。
その嫡孫の一晴は関ヶ原の戦いでの功によって正式に城主となり、城内で桑山氏の家紋である桔梗紋をあしらった瓦が出土したことが、桑山氏が和歌山城の城主となったことを示している。
一晴は慶長6年(1601年)に大和新庄藩へと転封となったため、浅野幸長が甲府城から移り新たに城主となった。
幸長は入城後に和歌山城の増改築に取りかかり、基本的には桑山氏時代の縄張を踏襲し、山頂の本丸に新たに天守を建て、二の丸には御殿を建てた。
東南麓の枡形の曲輪は三の丸とし、その北に蔵の丸、さらに北に下の丸を配置し、大手門である市之橋門が設けられ、和歌山城は東向きから北向きへと変わることとなった。
幸長は居住空間にも手を加え、鶴の渓庭園を設けるなど和歌山城は桑山氏時代の戦う城から住む城へと変わっていった。その変化は城下町にも見られ、大手門の東側に重臣の屋敷が集められ、北側には侍屋敷が造られ、城の周辺に人々の住居が集まり始め城下町が整備されていった。
浅野氏時代の特徴の一つとして、石垣に威厳を示す鏡石が置かれたことが挙げられる。鏡石は周囲の石より一際大きい石を組み込んだもので、大坂城の蛸石、名古屋城の清正石、今治城の官兵衛石などがよく知られ、和歌山城にも一中門石垣と天守二の門で見られる。
元和5年(1619年)に浅野氏が移封となると、徳川家康の十男である頼宣が新たな城代となり、ここに徳川御三家の一つ、紀州徳川家55万5000石が成立した。
徳川御三家筆頭、尾張徳川家の当主が創立した徳川黎明会が運営する徳川美術館は、平成29年(2017年)7月15日〜9月10日に企画展「天下人の城―信長・秀吉・家康―」を開催するが、これに先立って6月18日に行われた「天下人の城〜徳川美術館応援団」による第二回キックオフミーティングにて、徳川御三家の城はあくまで徳川将軍が城主であるとしているため、頼宣も城主ではなく城代ということになる。
頼宣は元和7年(1621年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、南の丸と砂の丸が増築され、山頂部の梯郭式と山の周囲の輪郭式が複合する縄張となった。また南の丸の縄張は藤堂高虎が見回りに来た際に安藤帯刀と相談したと『南紀徳川史』が伝えている。
城下町も拡張され、北は紀の川に近い場所に城下町への入口となる北大手門が設けられ、浅野氏時代の寺町の一部が城の南側へと移され新たな寺町が形成され、南外郭の守りとなった。
計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであったものの、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。
この大規模改修の際に、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。
また、落雷や空襲などによって数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。
紀州徳川家は江戸幕府第8代将軍となる徳川吉宗や第14代将軍となる徳川家茂を輩出するなど幕藩体制のなかで重要な位置を占め、14代252年にわたって和歌山城の城代を務め明治維新に至った。
和歌山城が築かれた岡山は、海から見ると虎が伏せっているように見えることから虎伏山とも呼ばれ、そのため和歌山城は江戸時代には虎伏山竹垣城とも呼ばれた。
当初は虎伏山の東峰に造られた本丸御殿が使用されていたが、不便で手狭だったため二の丸に御殿が新築された。
二の丸御殿は江戸城の御殿を模したため大奥が設けられたが、大奥が存在する城は江戸城、名古屋城、和歌山城のみだった。
彼女の髪の色にもなっている「紀州青石」で築かれた野面積みの石垣は、豊臣氏時代に築かれたとされる。
和歌山城では浅野氏時代に和泉砂岩で築かれた打込み接ぎの石垣や、徳川氏時代に友ヶ島の花崗岩で築かれた切込み接ぎの石垣も見られる。
また、現在城内の一部は和歌山公園動物園として観覧無料で運営されており、園長でもあるツキノワグマのベニーをはじめとするさまざまな動物が飼育されている。
動物園が出来た当時は国内に上野動物園・京都市動物園・天王寺動物園の3つしか動物園はなかったが、のちに城の中に動物園が作られた事例は小田原城、姫路城、小諸城などがある。
| 所在地 | 和歌山県和歌山市 |
| 現存状態 | 大小天守群、櫓・門、大手門・一之橋(復元) |
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 |
南海の鎮(クリックで表示)
徳川頼宣が55万5000石で和歌山城に城代として入ったことで成立した紀州徳川家は、西国大名の監視の任を負ったことから「南海の鎮」と呼ばれ、和歌山城は江戸幕府による西国支配の拠点となった。
頼宣はその任を全うするため和歌山城の大規模な改修を行い、城下町を整備し、和歌浦に紀州東照宮を建てた。こうして紀州藩繁栄の基礎を築いた頼宣は南龍公と尊称され、紀州東照宮に南龍大神として祀られている。
頼宣以降の紀州藩主も南海の鎮としての和歌山の整備に務め、江戸時代の後期には全国第8の都市にまで発展した。
紀州徳川家から和歌山市に寄贈された伝来の品に「南海之鎮」と刻まれた金印があり、これは家祖である徳川頼宣が造ったものだと伝えられてきたが、第10代藩主の徳川治宝によるものであることがわかった。
また、のちに江戸幕府第14代将軍徳川家茂となる第13代藩主徳川慶福の書には「大瀛濱我南封畿接我北」という印文の落款が捺されており、「私の領地には南に大海があり、畿内が北に接している」という意味となる。
これらのことからも南龍公徳川頼宣だけでなく、歴代の紀州藩主が南海の鎮としての責務に誇りを持っていたことがうかがえる。
Published by (C)DMMゲームズ
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