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盛岡城 のバックアップ(No.26)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
盛岡城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | |||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 射程 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 射程 | 回復 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 無 印 ★ 4 | 0 | 50 | 120 | 20 | 50 | |||||||||
| 0 | 55 | 120 | 21 | 55 | ||||||||||
| 0 | 60 | 120 | 22 | 60 | ||||||||||
| 0 | 65 | 120 | 23 | 65 | ||||||||||
| 1 | 70 | 120 | 24 | 70 | ||||||||||
| 1 | 75 | 120 | 25 | 75 | ||||||||||
| 2 | 80 | 120 | 26 | 80 | ||||||||||
| 2 | 85 | 120 | 27 | 85 | ||||||||||
| 3 | 90 | 120 | 28 | 90 | ||||||||||
| 3 | 95 | 120 | 29 | 95 | ||||||||||
| 4 | 100 | 120 | 30 | 100 | ||||||||||
| 4 | 105 | 120 | 31 | 105 | ||||||||||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | ||||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 射程 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 射程 | 回復 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 改 壱 ★ 5 | 0 | 50 | 120 | 20 | 50 | ||||||||||
| 0 | 55 | 120 | 21 | 55 | |||||||||||
| 0 | 60 | 120 | 22 | 60 | |||||||||||
| 0 | 65 | 120 | 23 | 65 | |||||||||||
| 0 | 70 | 5490 | 326 | 339 | 120 | 24 | 70 | 10321 | 560 | 637 | 196 | 35 | |||
| 1 | 75 | 120 | 25 | 75 | |||||||||||
| 1 | 80 | 120 | 26 | 80 | |||||||||||
| 2 | 85 | 120 | 27 | 85 | |||||||||||
| 2 | 90 | 120 | 28 | 90 | |||||||||||
| 3 | 95 | 120 | 29 | 95 | |||||||||||
| 3 | 100 | 120 | 30 | 100 | |||||||||||
| 4 | 105 | 120 | 31 | 105 | |||||||||||
| 4 | 110 | 120 | 32 | 110 | |||||||||||
詳細(クリックで表示)
CV担当:綾瀬有
| ▼ | ←クリックすると台詞一覧が表示されます。 |
※計略のない城娘の計略発動ボイスなど、通常流れないボイスはゲーム内の図鑑で聞くことができます。
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イラストレーター:茜屋
| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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【デザイン】
巫女服(クリックで表示)
城跡に建つ櫻山神社が由来か?寛延2(1749)年盛岡城の淡路丸に「淡路丸大明神」して造てられ淡路丸が「櫻山」と呼ばれたことから櫻山神社となった。
御祭神は初代光行・盛岡城着工主信直・築城主利直・利敬が祀られている。現在は三の丸・鳩森下曲輪跡にある。
髪飾り(クリックで表示)
南部氏家紋の南部鶴(対い鶴に九曜:むかいつるにくよう)
【特技・計略】
南部鉄器(クリックで表示)
南部鉄器には水沢のものと盛岡のものがある。ここでは当然、盛岡の方を記す。
盛岡の南部鉄器は盛岡城の築城が始まったあたりの鋳物工業を発端としている。かつては盛岡藩からのバックアップを得て発展していった工業であった。
一時は明治維新や二次大戦の影響で衰退を見せた南部鉄器だが、近年では伝統工芸品だけでなく、南部鉄器ならではの工法から生まれる利点を生かした調理器具として再び陽の光を浴びつつある。
特徴的な渋い光沢・落ち着きを見せる黒色の茶釜や鉄瓶が南部鉄器の代表的なイメージであるが、近年はピンクやパープルといった"女の子らしい、可愛い"カラーリングのものも登場している。
一応は鉄器なので頑丈さはお墨付きではあるのだが、当然鈍器として使うのは望ましくはない。
慶長の時代の南部鉄器で名を馳せた小泉家の四代仁左衛門は江戸で大砲の鋳造を学んだそうだが、まぁそのあたりは盛岡城のように"歳相応に落ち着いて"判断しよう。
【セリフ】
南部せんべい(クリックで表示)
八戸南部氏が藩主だった旧八戸藩地域に伝承の焼成煎餅。南部ちほーが主な生産・消費地で名物。
八戸では素焼きかゴマ入りでかなり固い、岩手県では甘かったり色々な具材が入っていたり柔らかい物があるなどと種類が多い。
これは八戸藩では飢饉用の非常食として主にせんべい汁として食べられていて、戦後岩手県がお菓子へと発展させたためである。
現在発祥地の八戸では家族経営が殆どで作り手が不足しており、商標登録も岩手側に取られている。
わんこそば(クリックで表示)
盛岡城がしきりに食べたいと言っている「わんこそば」であるが、これも間接的には南部利直が生みの親であるという説がある。
南部利直がはるばる江戸に向かう最中、花巻城にて食事を所望すると、山海の幸とともに漆器のお椀に入った一口大の蕎麦が出てきたという。
利直が「うまい」と何杯も蕎麦を平らげていった様子から「殿様の召し上がったわんこそば」としてブームになっていったという花巻起源説である。
有名人が食べたものが名物になるのは現代も昔も変わらないのである。
もうひとつの説は、盛岡の地主が祭事に大勢の村人・客人に蕎麦を振る舞う風習である。
もてなす人数が3桁にもなるお祭りのときは蕎麦が伸びてしまうので、小分けして振舞っていたという盛岡起源説である。
旧城プロでは、捕虜として捕まっていてもわんこそばを食べたがった盛岡城にとっては、どちらが起源なのかは大した問題ではないのかも知れない……。
烏帽子岩を見付けたんです!(クリックで表示)
烏帽子岩とは形が烏帽子のように見える岩のこと。
盛岡城築城時に高さ6.6m、周囲の長さ20mほどの烏帽子岩が見つかり、城内の祖神さまの神域にあったため宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰された。
現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として崇敬されている。
平安時代には存在していたとされる不来方城の跡地に築かれた城で、南部利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。
「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。
慶長3年(1598年)に本格的な築城が始められたが、水害や冬期の工事中断などで難航し、福岡城(九戸城)や三戸城、郡山城(高水寺城)などを仮の居城としつつ築城が進められ、寛永10年(1633年)に完成した。
なお完成した翌年の寛永11年(1634年)に失火により本丸を焼失しており、当時の盛岡藩主である南部重直は福岡城を一時居城とし、さらにその翌年の寛永12年(1635年)に修築された盛岡城へと戻っている。
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重直が入城した当時は城の西を北上川が流れており、その部分は崖によって守られていたが、寛文8年(1668年)から北上川の流路変更が行われた結果石垣が築かれるようになり、貞享3年(1688年)に高石垣が完成した。
以後は大きな変更は無く、明治維新に至るまで盛岡藩南部氏代々の居城として機能した。
本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていた。
さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配され、ここまでが総石垣で築かれ、三の丸北側の下曲輪は土塁で囲まれていた。
以上が御城内(内曲輪)と呼ばれる盛岡城の中心部で、その構成は豊臣氏時代の大坂城とよく似ている。
御城内の外側には外曲輪が配され、さらに御城内と外曲輪を大きく囲むように遠曲輪(総構)が配された。
本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。
そののち、天保13年(1842年)に12代利済により天守へと改称されている。
現在では東北では珍しい総石垣の城として、会津若松城、白河小峰城とともに東北三名城に数えられている。
なお盛岡市は盛岡城の復元を目指し、建物の構造がわかる古写真や絵図を探している
という。
| 所在地 | 岩手県盛岡市内丸1 |
| 現存状態 | 石垣、土塁、堀、移築土蔵・門 |
| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
不来方?盛岡?(クリックで表示)
かつて「不来方」と呼ばれていた地を「盛岡」に改めたことから城も名前だけ変えたものだと思われがちであるが、実は不来方城を基礎として出来たお城こそが「盛岡城」である。
しかし「不来方」という土地の呼び方は現代でも岩手県盛岡市を指す雅称(みやびな、おしゃれな呼び方)として残っているので、「雅称・不来方城」として覚えておくのも良いかも知れない。
ちなみに雅称と言えば「白鷺城」と呼ばれる姫路城や、「玉藻城」と呼ばれる香川県の高松城などが有名であろう。
築城主は盛岡藩南部氏の南部信直だが、当時は遥か遠くの京都の地にいたため実際は信直が嫡男である南部利直が築城にあたった。
従って、のちに盛岡藩初の初代藩主となる南部利直こそが盛岡城の親と呼べるのかもしれない。
南部氏と様々なお城たち(クリックで表示)
そんな盛岡城の間接的な親である南部信直は様々な城を転々とした経歴がある。
南部家の第22代当主である南部政康の次男にあたる石川高信の庶長子として一方井城で産まれ、南部家の第24代当主である南部晴政から養子として三戸城に迎えられ、南部家の人間としての道を始めた信直。
「斗星の北天」こと安東愛季(後の脇本城主)を撃退し、武勲を挙げる等の活躍をするが、晴政に実子・晴継が生まれてからは次第に疎まれていくようになる。
信直の実父、石川高信が南部家に攻撃された事実などから信直は身の危険を感じ、所領の田子城に戻るが刺客から逃れるために剣吉城や根城に身を隠していたことがある。
不来方城の頃に根城のことを「姉さん」と呼び慕っていたのはこれに関係しているのであろう。もっとも、御城に登場する不来方城は信直が築いた不来方城とは厳密には異なる。
敵対していた南部氏一族の九戸政実を滅ぼした後は、政実の居城であった九戸城に移り、福岡城と改称して盛岡に移るまでの居城とした。
信直は朝鮮出兵の際には肥前名護屋城に参陣したこともある。
結局朝鮮に渡航することなく信直は帰国し、そののちに盛岡に居城を定めるのだが、これは仙台藩初代藩主・「独眼竜」伊達政宗を警戒した上での選択だったと言われている。
南部氏は武田信玄公で知られる甲斐源氏に仕えており、後三年の役後に現在の青森県に移住したとされている。
江戸時代には国替えも無かったため、数少ない鎌倉時代から同じ領地を治め続けた一族である。(他は島津氏や相良氏、相馬中村城の相馬氏くらい)
最盛期は現在の岩手県中部~青森県全域と秋田県北部という広大な領地を持っており、「三日月の丸くなるまで南部領(南部藩領を巡るには三日月が満月になる8~10日を要する)」と詠まれる程であった。
しかし南部氏は中央政権からは「南部氏」としてではなく、宗家的な立場の三戸南部氏が「三戸殿」、有力一族の八戸南部氏と九戸南部氏がそれぞれ「八戸殿」「九戸殿」と別個に認識されていたように、中央集権化や国人の家臣化は進まず、結果、大浦(後の津軽)氏の反乱を招き津軽地方を失う。
また豊臣秀吉による奥州仕置で、信直の属する三戸南部氏を宗家として一族を家臣とするよう取り決められ、八戸南部氏の政栄はこれに従ったものの、九戸南部氏の政実は反発し、南部氏を二分する九戸政実の乱が起こった。
その後は10万石の安定した基盤を持ち、現在までその血筋は伝わっている。
豊臣秀吉公が天下人となると、南部家も領地を認めてもらう必要があったが、中央から遠い東北にいた南部家は、前田利家公を通じ、認めてもらうことができた。
その恩を忘れないように、ということで南部家では、名前に「利」の字を入れることが多くなったという。
Published by (C)DMMゲームズ
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