小倉城 のバックアップの現在との差分(No.20)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
小倉城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:今井麻美 特殊ボイス: 利用可能 画像イラストレーター:azuタロウ
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 【セリフ】 こうなったら、殿を幽閉するしか……(クリックで表示) 明智光秀の娘であり細川忠興の妻であるガラシャが本能寺の変ののちに、忠興によって味土野に幽閉されたという逸話からか。 明智光秀の娘であり細川忠興の妻であるガラシャが本能寺の変ののちに、忠興によって味土野に幽閉されたという逸話からか。 ただし、「幽閉」という言葉が強く意識されるようになったのは司馬遼太郎の小説『胡桃に酒』によるものと考えられ、現在味土野の地には『細川忠興夫人隠棲地』と「隠棲」という言葉を使った石碑が立てられている。 忠興はガラシャが光秀の親族として処刑されることを恐れて遠ざけたのであり、「幽閉」時に子供(のちの細川興秋)を授かっていることからも分かるように夫婦仲が険悪になったわけではなかった。 現実の城情報文永年間(1264年~1275年)頃、緒方大膳惟重が居城としたのが史料上の初見であり、関門海峡を挟んで本州と九州を結ぶ交通の要衝として機能した城である。 天正6年(1578年)に鑑種の養嗣子となった元種はのちに豊臣秀吉の中国攻めを受けて、小倉城を開城。代わって、森勝信(のちの毛利勝信)が城主となった。 天正6年(1578年)に鑑種の養嗣子となった元種はのちに豊臣秀吉の中国攻めを受けて、小倉城を開城。代わって、森勝信(のちの毛利勝信)が城主となった。 なお上記の通り、森から毛利の改名であるため、毛利は「もうり」ではなく「もり」と読むのが正しいとされる。 いずれにせよ勝信は、関ヶ原の戦いでは子の吉政(俗に勝永)とともに西軍についたが、終戦後改易となり、代わって細川忠興が豊前一国を領した。 続きをクリックで表示 忠興は当初中津城に入城していたが、交易の利便性や城下町の発展を見越して慶長7年(1602年)から7年の歳月をかけて小倉城を大改築し自らの居城とした。 石垣の構成はそのほとんどを野面積みで積んであるが、場所によっては打込接の布積みをおこなっている。 余談だが、勝信の子・吉政は大坂の陣では牢人五人衆に数えられた猛将である。 一時は徳川家康の本陣にまで迫ったものの撤退を余儀なくされたが、享保5年(1720年)頃に成立した『塩屋縁起翁草』では「惜しいかな、後世真田を言いて、毛利を言わず」と評された。 一時は徳川家康の本陣にまで迫ったものの撤退を余儀なくされたが、享保5年(1720年)頃に成立した『塩屋縁起翁草』では「惜しいかな、後世真田を言いて、毛利を言わず」と評された。
九州屈指の譜代大名・小笠原忠真(クリックで表示) 九州屈指の譜代大名・小笠原忠真播磨国の明石城城主小笠原忠真(初名は忠政)が小倉城に入城したのは寛永9年(1632年)だった。細川忠興が小倉城を大改修して30年目のことである。 藩主替えで小倉藩細川家2代目の忠利が54万石を賜って肥後に移るが、これは加藤忠広(清正の息子)が謀反ありの噂から改易されたことに起因する。 藩主替えで小倉藩細川家2代目の忠利が54万石を賜って肥後に移るが、これは加藤忠広(清正の息子)が謀反ありの噂から改易されたことに起因する。 徳川家康以来、外様大名に対し過剰ともいえる措置(取り潰し・減封)で政権を維持してきた幕府を鑑みれば当然の対応であった。肥後国はその後細川家が代々藩主を務めるものの、今でも熊本県の英雄は加藤清正ひとりである。 小笠原家は新羅三郎義光の流れを汲む清和源氏で、義光の子孫・加賀美遠光の子長清が甲斐国巨摩郡小笠原村に住んで、小笠原氏を名乗った。小笠原氏は武家の礼法「小笠原流」で世に知られる。 独特なところでいえば、通常茶会でお茶を戴いたあとはそっと椀を戻すだけであるが、小笠原流のばあいは椀の口が下を向くようにひっくり返して戻すという特徴がある。 忠興の後任に忠真をおいた背景には、徳川家との血のつながりと家柄を買ってのことであった。忠真の母は家康の孫であり、小笠原家は有力な譜代大名であったため、外様大名の犇めく九州で監視役とする狙いがあったのだろう。 入城に際しては「豊前国は九州要衝の地たるにより、鎮護せしむるの条、何事によらず相かわる儀こそあらば、早速言上いたすべし」という上意があったという。徳川幕府の初期、まだ九州の地が不安定であったことを示す。 忠真は紫側の主要口を固め、諸藩の大名宿舎を集中させて「九州探題」の役割を果たした。また藩の財政充実を第一にした税制の改革、旧藩の明石商人の導入など城下町の充実を図った。 文化において新風をもたらしたのは福聚寺の創建である。忠真は黄檗宗開祖の明僧・隠元の高弟即非如一に深く帰依していた。足立山の麓に彼を開山とした寺院の建立を計画するほどであった。 当時は幕府の布く寺院統制が厳しく新しい寺の創建は相当に困難であったが黄檗宗寺院のみは例外として創建を許されたという。これを機に小倉を中心として黄檗禅による書画、工芸が興り城下町は華やいだ。 城下町の再編、税制改革ならびに黄檗文化の花を咲かせた九州探題の豊前国小倉藩主・小笠原忠真の遺産は細川忠興とともに小倉の町に色濃く残っている。 福岡城とは犬猿の仲?(クリックで表示) 福岡城とは犬猿の仲?豊前国に約40万石で入封した細川忠興は小倉城城主であり初代藩主、約52万石で筑前国へ大封した黒田長政は福岡藩主ならびにのちの福岡城城主である。 豊前国に約40万石で入封した細川忠興は小倉城城主であり初代藩主、約52万石で筑前国へ大封した黒田長政は福岡藩主ならびにのちの福岡城城主である。 ともに関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍で活躍した仲ではあるが、実を言うと隣同士仲が悪かったという。 ことの発端は引っ越しに際した年貢米の処置であった。通常、武士の作法として引っ越しの際は後継領主のため年貢米は置いてゆく。もちろん丹後から豊前へ引っ越す際に忠興は礼儀に倣った。 しかし、他方の黒田長政は年貢米をもって筑前国に移動したため、これを善しとしない忠興は家康に訴えたが、開府前に口を出すことを嫌がった家康は問題を放置した。 腹を立てた忠興は水軍(番船)を門司に配備し、大坂で換金するため出港しようとする福岡藩を拿捕する手に出たのだ。 黒田水軍と細川水軍の一触即発の事態に驚愕した山内一豊(土佐高知藩)と片桐且元(大和竜田藩)は慌てて仲裁に入り、福岡藩が年貢米を分割で返還する約束を取り付け決着した。 ただ福岡藩の返済が完了したのは慶長7年(1602年)の5月、開藩より約2年を費やしの返還であった。この事件以来二人は犬猿の仲となってしまう。 コメント |
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