大野城 のバックアップの現在との差分(No.6)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
大野城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:長谷川明子
画像イラストレーター:
城娘の元ネタ情報【出張版】教えて!れきしクン! 第16陣にて公式解説あり。 【デザイン】 髪飾りなど(クリックで表示) 髪飾りと背中の飾りは現在の大野城市の市章を、長いツインテールは百間石垣をそれぞれモチーフとしている。 が、背中の飾りと左右のツインテールを合わせて、市章を表しているとも見える。 また胸の勾玉は、大野城市内で勾玉が発掘されたことからデザインに入れられていると思われる。 【特技・計略】 【セリフ】 現実の城情報大野城(おおのじょう/おおののき)は太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山に築かれた日本最古の古代山城(朝鮮式山城)となる。 『日本書紀』に記されている通り、天智天皇2年(663年)、白村江(百済)にて唐・新羅の連合軍に敗れた大和朝廷は朝鮮半島から後退し、天智天皇4年(665年)に大陸から大宰府を守るため築かれたものである。 水城(みずき)の築城から一年遅れての設置であった。まず百済からの帰化人を技術者として起用し、大野城に加え基肄城、水城を築いた。 那の津を第一線とし、突破されると水城で防ぎ、大宰府に敵が迫ればこの大野城を最後の防衛線とする計画であった。 大野城(おおのじょう/おおののき)は太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる四王寺山に築かれた日本最古の古代山城(朝鮮式山城)となる。城の名前がそのまま地名となった例の一つである。 『日本書紀』に記されている通り、天智天皇2年(663年)、白村江(百済)にて唐・新羅の連合軍に敗れた大和朝廷は朝鮮半島より撤退し、この先おとずれるであろう大陸からの侵略に対し国防に注力する。 まずは百済からの帰化人(亡命した官人)を技術者として起用し、侵入経路としてもっとも容易な平野部、筑紫野地峡帯に遮断城の水城(みずき)を築いた。木樋から絶えず水を流し人口の巨大な濠を作ったのだ。 さらに「秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門国。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫国築大野及椽二城。」*2とあり、大野城と基肄城を翌年の天智天皇4年(665年)に築城した。 大陸から大宰府を守ると同時に、もしも敵に深くまで侵入された場合は、役人・要人を籠城させるための施設であった。水城の築城から一年遅れての設置である。 続きをクリックで表示 斎藤慎一・向井一雄共著『日本城郭史』によると、日本の古代山城は「嶮山城類」と「緩山城類」の大きく二つのタイプに分かれ、大野城は前者に属し大宰府の北側背後にそびえる標高410メートルの急峻な大城山に築かれた。 斎藤慎一・向井一雄共著『日本城郭史』によると、日本の古代山城は「嶮山城類」と「緩山城類」の大きく二つのタイプに分かれ、大野城は前者に属し大宰府の北側背後にそびえる標高410メートルの急峻な四王寺山に築かれた。 南北2キロメートル、東西1.5キロメートルの稜線上に一周6.5キロメートルの城壁が張り巡らされ、さらに南北にはそれが2重構造となっている。 場所によっては「百間石垣」と呼ばれる長大な石垣が存在し、当時はそこに城門を設け、有事の際には官人や貴人が素早く逃げ入り長期籠城する機能があったとされる。 それを証明するかのように近年の発掘調査によって、約70棟分の建物遺構が見つかった。建物の用途としては主に倉庫ではないかと推定され、食料や武具などが保管されていたと考えられる。 大野城は朝鮮式山城の中でも代表格とされており、源流は百済国の首都であった扶余郡の扶蘇山に酷似している。 また、この地域は東アジアの都城をモデルとして、大宰府を中心に山岳部の大野城・基肄城、平野部の水城を外郭として防備を固め、大宰府都城が形成された。 侵略がもし起これば、那津の第一防衛線で防ぎ、突破されたならば水城を前に弓で敵を食い止める。さらに破られ大宰府に敵が押し寄せた際には大野城に逃げ延びて籠城を計る作戦であった。 大野城は朝鮮式山城の中でも代表格とされており、源流は百済国の首都であった扶余郡の扶蘇山に酷似している。地形が似ていたため取り入れやすかったと考えられる。 また、この地域は東アジアの都城をモデルとして大宰府を中心に山岳部の大野城・基肄城、平野部の水城を外郭に防備を固め、大宰府都城が形成された。 大野城が山城として使われなくなった時期ははっきりしないが、大陸からの侵攻の可能性が無くなった8世紀初めの時点で重要性は失われたとされる。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造土塁は自然の地形に合わせて築かれており、高さは一定ではないものの現状では4~5メートルほどはある。土塁の様子から築造方法は版築工法であると判明した。 版築か否かを見極めるにあたり、地層の具合と周囲の痕跡がカギとなる。土塁前面部には1メートル前後の方形柱穴が発見され地山成形後に盛られた基底の積土を掘り込んでいる。これは積土の際に堰板をとめる堰板柱の跡だった。 このことから土塁は堰板で押さえつけながら突き固めていったことがわかる。土には花崗岩風化バイラン土を使用し、粘質土と砂質土を混合して厚さ10センチの層を積み重ねていた。 谷部には粗割した石を積み上げた石塁が築かれている。一部の小石垣は岩盤を段切りにしてその谷底の中央部に大きさの異なる石を乱積みし、自然と水が流れるような工夫が見られた。 くわえて、石垣の横目地がとおる重箱積や、一定の高さで石垣が揃うようにして、そこからさらに石を積んだ層状単位積がある。城壁建築の折、あらかじめ大筋の施工計画があったと考えていい。 上述にもあるように大野城には百間石垣なるものが存在する。城内で一番深い谷部に築かれた城壁で文字どおり百間(180メートル)の長さになる長大な石垣だ。 1973年の集中豪雨の際、石垣の周辺で礎石が見つかっており、城門があったことが分かり宇美口城門と名付けられている。大野城にはこうした門が見つかっただけでも8か所存在する。 その城門の中には大宰府や観世音寺などの重要施設と通じる門が設置されている。百間石垣とは反対の最南端にそれらは口を大きく開けていたという。大宰府口門は有事の際の大宰府からの入城門なので何度か建て替えられている。 1期のころの柱は支柱(コウヤマキ材)がそのまま突き刺さっており中腐されを起こしていたが、2期以降は門礎石が使用されていた。3期での建て替えの際も2期の礎石が使用されている痕跡があった。 また、門礎に据えられた状態で出土した門戸の軸受けは日本最古の国内産の可能性が高いと言われ、分析の結果では砂鉄を鋳造して造っていた。極め高度な製錬鉄であった。 コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示