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二本松城 のバックアップ(No.5)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
二本松城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | ||||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 無 印 ★ 6 | 0 | 50 | 50 | ||||||||||||
| 0 | 55 | 340 | 21 | 55 | |||||||||||
| 0 | 60 | 340 | 22 | 60 | |||||||||||
| 0 | 65 | 340 | 23 | 65 | |||||||||||
| 0 | 70 | 340 | 24 | 70 | |||||||||||
| 0 | 75 | 340 | 25 | 75 | 612 | 40 | |||||||||
| 1 | 80 | 80 | |||||||||||||
| 1 | 85 | 85 | |||||||||||||
| 2 | 90 | 90 | |||||||||||||
| 2 | 95 | 95 | |||||||||||||
| 3 | 100 | 100 | |||||||||||||
| 3 | 105 | 105 | |||||||||||||
| 4 | 110 | 110 | |||||||||||||
| 4 | 115 | 115 | |||||||||||||
| 初期配置 | 巨大化 | |||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 改 壱 ★ 7 | 0 | 50 | 340 | 20 | 50 | 612 | 32 | |||||||
| 0 | 55 | 340 | 21 | 55 | 612 | 33 | ||||||||
| 0 | 60 | 340 | 22 | 60 | 612 | 35 | ||||||||
| 0 | 65 | 340 | 23 | 65 | 612 | 36 | ||||||||
| 0 | 70 | 240 | 24 | 70 | 612 | 38 | ||||||||
| 0 | 75 | 340 | 25 | 75 | 612 | 40 | ||||||||
| 0 | 80 | 340 | 26 | 80 | 612 | 41 | ||||||||
| 1 | 85 | 340 | 27 | 85 | 612 | 43 | ||||||||
| 1 | 90 | 340 | 28 | 90 | 612 | 42 | ||||||||
| 2 | 95 | 340 | 29 | 95 | 612 | 43 | ||||||||
| 2 | 100 | 100 | ||||||||||||
| 3 | 105 | 105 | ||||||||||||
| 3 | 110 | 110 | ||||||||||||
| 4 | 115 | 115 | ||||||||||||
| 4 | 120 | 120 | ||||||||||||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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| 日影の井 | ||||||
| Lv | 耐久 | 範囲 | 攻撃 | 防御 | 回復 | 特技 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 966 | 400 | 0 | 30 | 0 | 耐久/回復強化【範囲】 範囲内の城娘の耐久が20%、回復が20上昇 |
| 50 | 1283 | 65 | ||||
| 55 | 1315 | 69 | ||||
| 60 | 1348 | 72 | ||||
| 65 | 1380 | 76 | ||||
| 70 | 1413 | 79 | ||||
CV担当:山下七海
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イラストレーター:
| ▼ | ←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。 |
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【デザイン】
【特技・計略】
【セリフ】
(私の大砲に、殿の名前を書いてほしいんだ……)(クリックで表示)
二本松少年隊の岡山篤次郎の逸話。出陣前夜、支度を整えていた母親に「私の持ち物に『二本松藩岡山篤次郎13歳』と書いてください。私は字が下手だから敵に見られたら恥ずかしいし、なにより私が死んだ時、母上が私の亡骸を見つけやすいでしょ?」とお願いをし母が望み通り持ち物に名を記した。大壇口に出陣、善戦するも敗走。大隣寺付近まで引き上げた時、新政府軍の一斉射撃に合い重症を負い新政府軍の野戦病院に運ばれた。混濁した意識の中「鉄砲はどこだ」「弾をよこせ」とうわごとを繰り返し、時々我に帰ったように「悔しい」と涙を流し母親を呼んでいた。その健気な姿を見て土佐藩広田弘道新政府軍隊長は「今敦盛」と評し回復したら自分の養子にしたいとまで言いましたが、その日の夕刻、息を引き取った。篤次郎の身元は彼が望んだ通り衣装に書かれた名前から家族の元へと帰された。墓石には広田隊長からの反感状の一文が刻まれた。「君が為 二心なき武士は 命を捨てよ 名に残るらん」」
中世から近世にかけて奥州街道を押さえた要衝の城で、戊辰戦争での二本松少年隊の悲劇でも知られる。
のちに室町幕府三管領家の一つとなる名門・畠山氏の、かつての嫡流にあたる畠山高国が足利尊氏によって奥州管領に任じられ、現在の二本松城から北に1.7キロメートルの、殿地が岡(田地が岡)に居館を構え二本松と改称したのが始まりで、満泰の代で新たに二本松城を築き居城とした。
二本松城は、標高345メートルの白旗ヶ峰を中心に、南・西・北が丘陵で囲まれた要害の地に築かれ、二本松畠山氏時代は現在西城と呼ばれる部分が中心部だった。
山頂部の本丸を中心としてその直下の西側には新城館、東側には松森館が置かれ、新城館の下には本宮館、松森館の下には鹿子田館、そして城下に向かって東西に伸びる観音丘陵上には、箕輪館と栗ヶ柵館が置かれて内郭防衛線が設定されていたと思われる。
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城内には、この時代の大手道の一部がそのまま残されており、山の中腹斜面にはつづら折れの通路が確認できる。
また本丸の北側に伸びる尾根に設けられた、土塁や空堀やL字型の堀切も二本松畠山氏時代の遺構と考えられている。
高国の甥で、畠山氏の庶流だった国清の家系が畠山氏の嫡流となり三管領の家柄として繁栄する一方で、二本松畠山氏は奥州在地の一国人として扱われるなど没落し、蘆名氏や伊達氏に圧迫されるようになった。
天正13年(1585年)、伊達政宗が塩松地方の大内定綱を攻めた際、二本松畠山氏9代当主・義継は蘆名氏などとともに反伊達勢力であったことから、定綱が居城の小浜城を捨てて逃れてくるとこれを受け入れた。
結果、二本松畠山氏は伊達氏の攻勢に晒され、降伏するにも政宗から厳しい条件を突きつけられ窮した義継は、政宗の父輝宗を頼り、何とか講和にこぎ着ける手はずを整えた。
しかし、この謝礼のために宮森城に居た伊達輝宗のもとを訪れた義継が突如輝宗を拉致し、最終的に阿武隈川河畔で伊達氏の軍勢により輝宗もろとも射殺されてしまう(粟之巣の変事)。
これにより講和は破談となり、伊達勢に包囲された二本松城では義継の遺児・国王丸(元服し義綱と名乗る)を立て、これに抵抗した
二本松城の包囲を受けて、伊達氏と対立関係にあった佐竹義重と相馬義胤ら南奥諸氏の連合軍が二本松方への援軍として北上し、それを察知した伊達政宗は包囲に必要な兵力以外をまとめて南下、両者は伊達領南端で衝突、人取橋の戦いが勃発する。
合戦そのものは老臣鬼庭左月斎が討ち死にするなど伊達氏側の大敗に終わったものの、当日夜に陣中の混乱と領内の不穏を受け佐竹義重が突如帰国してしまったため、伊達勢を追撃することなく連合軍も撤退してしまう。
そのため、この戦での連合軍の成果は伊達軍の予備兵力に打撃を与えただけにとどまり、伊達勢が強攻で二本松城を落とすことは防げたものの、二本松城が包囲されているという状況を打開することはできずじまいであった。
翌年になると再び伊達方の攻勢が強まるが、籠城勢の必死の防戦と蘆名氏など南奥諸将の圧力により伊達方は二本松城を攻め落とすことができず、一方、長い包囲により籠城方も限界に達しつつあった。
最終的に相馬義胤が間に入る形で講和がまとまり、これを受けて二本松義綱らは蘆名家へと退去し、二本松城は伊達氏のものとなった。
この一連の出来事により、伊達氏を中心とした婚姻や養子縁組による南奥諸氏の緩い外交的結びつきである洞(うつろ)は完全に崩壊し、南奥諸氏は佐竹氏を中心とした連合体制へと移行、伊達氏は外交的に孤立を深めることになった。
一方、洞による外交的束縛から解き放たれたことは伊達政宗を南東北の武力統一へと邁進させ、肝心要の佐竹氏が惣無事令の影響で南東北への干渉に消極的になってしまったため南奥諸氏は各個撃破される形となり、伊達政宗に屈服していった。
近年の発掘調査によって二本松城の新城館では自焼した痕跡が発見され、この付近で攻防戦があったことを裏付けるとともに、本丸の機能が新城館にあったことが明らかとなった。
政宗は二本松城の城代として「智の片倉景綱」と「武の伊達成実」と呼ばれる2人の重臣を続けて置くなど二本松城を重視したが、豊臣秀吉によって政宗が転封となると会津には蒲生氏郷が入り、二本松城は会津若松城の支城となった。
この蒲生氏の時代に二本松城は石垣を備える近世城郭へと改修され、続く上杉氏、再び蒲生氏、加藤氏も改修を続けた。
上杉氏の時代には二本松城内の新城館(西城)と松森館(東城)にそれぞれ城代が置かれ、この二城代体制は蒲生氏にも引き継がれ、二本松城が重要な支城と位置づけられていたことがうかがえる。
二本松城の近世城郭への改修は中世期の縄張が強く意識されており、中世の切岸を石積で補強し、搦手門を掘立柱による冠木門から礎石立の高麗門に造り替え、三の丸は高石垣を用いて造成されるなど、中世城郭を近世城郭に改変する形で改修されていき、これらの改変は、寛永4~20年(1627~1643年)の加藤氏の時代によるものと判明している。
寛永20年(1643年)に白河小峰城から移った丹羽光重は、観音丘陵を城域に取り込むなど大規模な改修に着手し、馬蹄形城郭と呼ばれる特異な造りの城となった。
城内の石垣は修築されて天守も築かれ、さらにそれまで城の直下を通っていた奥州道中を観音丘陵の南側に付け替えた。
武家屋敷と社寺町家屋敷は観音丘陵を境として完全に分離され、武家屋敷は郭内、社寺町家屋敷は郭外とする城下・城下町整備が行われ、二本松藩の藩庁としてふさわしい威容が備えられた。
以後、二本松城は丹羽氏10代の居城となって幕末に至り、戊辰戦争で二本松藩は、奥羽越列藩同盟に参加したことで新政府軍による攻撃を受けることとなる。
その際に、少年兵で構成された二本松少年隊の多くが戦死するなどの悲劇を経て落城し、明治6年(1873年)の廃城令で廃城となった。
城の建物は戊辰戦争で多くが焼失し、廃城令で残る建物も破壊されたが、昭和57年(1982年)に箕輪門とそれに付属する二階櫓、多門櫓が復元され、平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて穴太衆が積んだとされる本丸の石垣が復元され、本丸が整備された。
この本丸が、天下統一・蒼の山風 ~陸奥(岩代)~のモデルとなっている。
この城は入口に藩政改革と綱紀粛正の戒めが刻まれた「戒石銘碑」があることでも有名である。
これは、5代藩主丹羽高寛が藩儒学者の岩井田昨非の進言により、藩士の戒めとするために刻ませたもので、寛延2年(1749年)3月に完成した。
その内容は、「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」と解釈されている。
この戒石銘が二本松藩士の士風を奮い起こしたとされ、戊辰戦争において藩の子弟が二本松少年隊として新政府軍に対して奮戦して士道に殉じ、また重臣の多くが城を枕に自刃して武士の模範を示したことも、この戒石銘の余香であったという。
昭和10年(1935年)12月24日には、教育資料として、また行政の規範として価値の高いものと認められ、「旧二本松藩戒石銘碑」として国の史跡に指定された。
二本松城は中世城郭の山城と近世城郭の平山城が同じ場所で機能し、その変遷や当時の政治、築城技術を詳しく知ることができる城となっている。
中世から近世へと移行するなかで、城の役割が戦いの場から政治の拠点へと変化していき、多くの場合は政治に便利な場所へと移転するものだが、二本松城は山麓に三の丸を設けることで中世城郭の山城から近世城郭の平山城へと変化させたことが大きな特徴となっている。
図鑑文章で「中世から近世にかけて同じ場所に存続した、東北の中では稀有な城」と言っているが、単に中世から近世にかけて同じ場所に存続した城なら東北地方にも数多くあるので、この山城から平山城への移行のことを指しているのだろう。これは東北地方では仙台城や三春城でも見られる。
これらの特徴が評価され、平成18年(2006年)には日本100名城に選定され、平成19年(2007年)には国の史跡に指定された。
余談だが二本松は日本三大提灯祭りの一つに数えられる二本松提灯祭りでも知られ、城娘のデザインにも反映されている。
二本松藩では養蚕業が盛んに行われ、隠津島神社の鎮座地である木幡山の「木幡」は「蚕機(こはた)」の謂であるとされ、養蚕の神としても崇められる。
「日影の井戸」は千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とともに「日本三井戸」と称され、畠山氏が二本松城を築城した応永年間(1400年頃)に造られたとされる。
| 所在地 | 福島県二本松市郭内 |
| 現存状態 | 石垣、堀など |
| 城郭構造 | 梯郭式平山城 |
Published by (C)DMMゲームズ
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