宇佐山城 のバックアップの現在との差分(No.3)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
宇佐山城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:井上麻里奈
画像イラストレーター:きらばがに
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 城娘姿での右肩の装備(クリックで表示) 初代城主の森可成が着用したと伝わる、「黒革包畦目綴二枚胴具足」がモデルと思われる。 現在その甲冑は赤穂大石神社が所蔵している。社伝によれば、可成が桶狭間の戦い・姉川の戦いの際に着用したとされるが、甲冑の形式は桃山時代のものであるため、可成ではなく息子の忠政のものではないかと言われている。 【特技・計略】 攻めの三左(クリックで表示) 森可成の渾名。 穴太衆(クリックで表示) 延暦寺の門前町・坂本に存在した石工の集団。 ただし、宇佐山城の石垣を穴太衆が手掛けたとされる記録は残っていない。 【セリフ】 槍の名手として知られる城主譲りの力(クリックで表示) 「槍に関しては、そこらの城娘に負けない腕がある」「アタシの槍で貫いてみせる!」「攻めの三左」「私の槍捌き」と併せて。 初代城主・森可成は槍の名手として知られ、「攻めの三左」という異名を持っていた。 悪僧(クリックで表示) 「宇佐山城の戦い」では、浅井長政・朝倉義景らと共に延暦寺の僧兵も参戦していた。 多勢に無勢(クリックで表示) 「宇佐山城の戦い」における、森可成軍の戦況を指すと思われる。 兵力差は史料によって異なるが、『信長公記』によれば浅井・朝倉連合軍は3万、森可成軍は1000足らずであったとされる。 現実の城情報織田信長が家臣の森可成に命じ、近江国の浅井長政・越前国の朝倉義景への備えとして、同じ近江国の安土城よりも早く石垣を用いて宇佐山に築いた城。 元亀元年(1570年)には浅井・朝倉連合軍が進軍を始め、可成は寡兵ながらも奮戦したが、石山本願寺(石山御坊)の顕如の要請を受けた比叡山延暦寺の兵や浅井本隊に攻められ戦死した。(志賀の陣) ただし宇佐山城はその後も持ち堪え、落城はしなかった。信長が後詰めに現れ戦況が長く膠着すると、和議の条件として焼き払われたとみられるが、比叡山焼き討ちの直前まで要所として機能していた。 織田信長が家臣の森可成に命じ、同じ近江国の安土城よりも早く石垣を用いて宇佐山に築いた城である。 当時岐阜城に本拠を置いていた信長は、美濃―京都間往来のため、京都から近江へ出る道を確保する必要があった。宇佐山城は、築城と同時に京都と近江を繋ぐ新しい道を開設していたことから、交通路掌握のため築城されたと考えられている。 元亀元年(1570年)9月、大坂で石山本願寺(石山御坊)と対峙していた信長の隙を突く形で、本願寺と連繋した浅井・朝倉連合軍が宇佐山城を攻めた。可成は寡兵ながらも奮戦し、一度は敵軍を押し返したが、浅井・朝倉軍に味方した比叡山延暦寺の僧兵が加わったため、最終的には衆寡敵せず、戦死した。(宇佐山城の戦い) 続きをクリックで表示 ただし宇佐山城は、城内に残された兵たちの堅固な守りによって持ち堪え、報せを聞いた信長が大坂を退陣して宇佐山城に到着するまで落城しなかった。 宇佐山城は前述の通り、信長の本拠である美濃と京都を結ぶ位置に存在していたため、宇佐山城が落城すれば信長は美濃へ帰国できず、京都も敵に奪われていた可能性が高い。落城を免れたことには重要な意味があったとされる。 その証拠として、比叡山焼き討ちの10日前に明智光秀が土豪の和田秀純に宇佐山入城を命じた書状が残っており、同時に「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と仰木(現在の大津市仰木町)の皆殺しも命じている。 このことから比叡山焼き討ちの中心人物であったと考えられる光秀がその戦功により坂本城を築くと、宇佐山城は廃城になったとみられるが、石垣の一部は現存している。 信長は宇佐山城が攻められた報せを聞き、すぐに大坂を退陣して宇佐山城へ向かった。そのことを知った浅井・朝倉連合軍は比叡山へ逃げ込んだ。 その後、信長は宇佐山城に入り、比叡山の浅井・朝倉軍と対陣することになった。この対陣は3ヶ月間にわたり、志賀の陣と呼ばれる。 また、この対陣の際に、信長は比叡山延暦寺に対し「これから先織田に味方するならば、織田の領国内にある延暦寺領を返還する。出家の身であるからどちらか一方に味方することはできないと言うならば、浅井・朝倉方にも味方せず、我々の軍事行動を妨害しないでもらいたい。」「もしこの二カ条を受け入れないと言うならば、一山ことごとくを焼き払うであろう」と通告した。しかし、延暦寺はこれに返答せず、そのまま浅井・朝倉軍を駐軍させていた。これが翌元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちの根拠となった。 余談だが、比叡山焼き討ちに関して、森可成が比叡山延暦寺の僧兵に攻められ戦死したことも、比叡山焼き討ちの一因と言われることがある。 また、比叡山山麓の聖衆来迎寺は延暦寺の道場であったが、宇佐山城の戦い後に森可成を埋葬供養したために、焼き討ちを免れている。 約3ヶ月に及んだ志賀の陣は、将軍の足利義昭や公家の二条晴良の働きかけにより、和睦が成って終結した。 このときの和睦の条件に「陣払い小屋悉く放火」とあることから、この段階で宇佐山城が自焼により廃城となった可能性が示されている。 しかし、信長在城時の宇佐山城には、信長の側近たちの控える小屋が山の中腹に建設されていたことが史料から明らかになっている。また、元亀2年(1570年)7月に、当時宇佐山城の城主であった明智光秀を訪ねるために宇佐山を登山した記録が残されている。 これらのことから、和睦の際に焼かれたのは信長の側近たちの小屋で、宇佐山城自体は残されたとする説と、和睦に際し一旦焼かれたものの、後に入城した明智光秀によって再建されたとする説がある。 前述の通り、元亀2年(1570年)の比叡山焼き討ちの前には、明智光秀が城主となっていた。 比叡山焼き討ちの10日前に、雄琴(現在の大津市)の国衆である和田秀純へ宛てた光秀の書状が残されている。 その書状には、仰木(現在の大津市)の国衆であった八木氏の帰参に対し「かんるいをなかし候(感涙を流し候)」と記されており、光秀が比叡山を孤立させるために周囲の国衆たちを比叡山から離脱させようとしていたことが窺われる。 また、「仰木之事は是非共なてきりニ可仕候(仰木のことは是非とも撫で斬りに仕るべく候)」とも記されており、光秀が比叡山焼き討ちに対して積極的に行動している様子が分かる。 このことから、光秀は比叡山焼き討ちの中心人物であったと考えられている。 比叡山焼き討ち後、その戦功により光秀は志賀郡(現在の大津市)を任されることになる。 そこで、光秀は新たに坂本城を築き、そちらに居城を移したため、宇佐山城は築城から2年間ほどで廃城になったとみられる。 現在の宇佐山城は、主郭・副郭の東斜面に石垣が残存している。 本丸跡にはNHKと民間放送のアンテナ施設が建てられ、遺構は破壊されている。 また、発掘調査で瓦が出土している。
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