アテナイ・アクロポリス のバックアップの現在との差分(No.20)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
アテナイ・アクロポリス/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:島本須美
画像イラストレーター:
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 アテナ女神像(クリックで表示) 前456年頃に、彫刻家フェイディアスが、アテナ・プロマコス(「最前線のアテナ」)像をアクロポリスに作った。その像は、槍と盾と兜を身につけていたとされる。 前456年頃に彫刻家フェイディアスが、アテナ・プロマコス(「最前線のアテナ」)像をアクロポリスに作った。その像は、槍と盾と兜を身につけていたとされる。 フクロウとヘビ(クリックで表示) フクロウもヘビもアテナ女神の聖獣。エレクテイオンではヘビが飼われていた。 ラウンドシールド(クリックで表示) 中央にヘビが絡まったような意匠があることから、おそらくアテナの武器であり盾と解釈されることの多い「アイギス」と思われる。神話においては髪の毛がヘビであり人を石化させる怪物メデューサが英雄ペルセウスにより討伐された後、アテナはメドゥーサの頭をアイギスの中央部に取り付けて強化したと伝えられる。 聖オリーブ(クリックで表示) アテナ女神は、オリーブの木を人間にもたらしたと伝えられており、そのときのオリーブの子孫と伝わる木が「聖なるオリーブ」(モリア)としてアクロポリスに植えられていた。その故事にならって、いまもエレクテイオンの横にオリーブが1本植えられている。 アテナ女神はオリーブの木を人間にもたらしたと伝えられており、そのときのオリーブの子孫と伝わる木が「聖なるオリーブ」(モリア)としてアクロポリスに植えられていた。その故事にならって、いまもエレクテイオンの横にオリーブが1本植えられている。 神殿(クリックで表示) アクロポリスの上には、アテナ・パルテノス(処女神アテナ)神殿(通称パルテノン)、アテナ・ポリアス(ポリス守護女神アテナ)神殿(通称エレクテイオン)、アテナ・ニケ(勝利女神アテナ)神殿がある。向かって右側の神殿の絵のように、ペディメント(破風)は当時赤や青や金色で塗られていた。 輝く瞳(クリックで表示) 女神アテナの尊称に、詩人ホメロスが頻用した「グラウコーピス(輝く瞳/蒼い瞳の)・アテーネー」というものがある。アテナの聖獣がフクロウとされているのは、この「グラウコーピス」が後年「フクロウ(グラウクス)のような」と解釈されたことにもよる。 【特技・計略】 パラス・アテナ(クリックで表示) 「パッラス・アテナ」は、アテナ女神のことだが、「パッラス」というのは、意味も語源もよくわかっていない。 「パッラス・アテナ(Παλλάς Ἀθηνᾶ)」は、アテナ女神のこと。 「パッラス」の語源についてはギリシャ語で「武装した(πάλλω/パッロー)」あるいは「うら若き(παλλακίς/パッラーキス)」から派生したものではないかと推測されているが諸説ある。都市を守護するとされたアテナの神像が「パラディオン」と呼ばれるのもパラスとの関連。 一般的なギリシャ神話においては、トリトンの娘でありアテナの親友でもあったパラスを槍試合中にアテナが誤って殺してしまい、そのことを嘆き悲しんだアテナが自身の名にパラスの名を留めたとされている。一方で、パラスは巨人族との戦争・ギガントマキアーにおいてアテナが殺害した巨人の名であるとする神話もあり、出所は判然としない。 プロピュライア(クリックで表示) 「プロピュライア」は、「前門」、つまり入口の意味で、アクロポリス西端にある。建築家ムネシクレスを中心に、前437年から建設された。それ自体が、大理石の大階段と列柱からなる巨大な建造物であり、現在でもここを通ってアクロポリスに入る。 「プロピュライア」は、「前門」、つまり入口の意味で、アクロポリス西端にある。 建築家ムネシクレスを中心に、前437年から建設された。それ自体が、大理石の大階段と列柱からなる巨大な建造物であり、現在でもここを通ってアクロポリスに入る。 パナテーナイア(クリックで表示) πᾶς「全ての」+Ἀθηναῖος「アテナイの」で、「全アテナイの(祭)」という意味で、アテナ女神に捧げられた祭。毎年8月頃に開催された。前566/5年からは、4年に1度は大祭として、全ギリシア規模での運動競技と演劇の競演が行われ、また、アテナ女神に聖衣(ペプロス)を奉納する行列が、ポリス北西の「聖門」から、アクロポリスまで練り歩いた。その様子は、パルテノン神殿のレリーフに描写されており、現代でも目にすることができる。 πᾶς「全ての」+Ἀθηναῖος「アテナイの」で、「全アテナイの(祭)」という意味で、アテナ女神に捧げられた祭。毎年8月頃に開催された。 前566/5年からは、4年に1度は大祭として、全ギリシア規模での運動競技と演劇の競演が行われ、また、アテナ女神に聖衣(ペプロス)を奉納する行列が、ポリス北西の「聖門」から、アクロポリスまで練り歩いた。その様子は、パルテノン神殿のレリーフに描写されており、現代でも目にすることができる。 エレクテイオン(クリックで表示) アクロポリス北部に位置する神殿。 名前はギリシャ神話の英雄であり、一説にはパナテーナイア祭の創始者ともされるアテナイ王エリクトニオスに捧げられたもの(トロイア戦争に参加したアテナイ王エレクテウスともしばしば同一視された)。女神アテナを筆頭に多くの神格・英雄を祀っている。 都市守護の神像パラディオンが天から齎された場所とされ、神殿内にはアテナの象徴である聖なるヘビが生息していたとも伝えられる祭祀上極めて重要な場所だった。 現在残る遺跡はイオニア式の建築で紀元前5世紀末に完成したもので、プロピュライアの項にもある建築家ムネシクレスによる設計だが、それ以前にあった神殿は前480年のペルシア戦争においてペルシア軍に破壊されたとされている。 【セリフ】 スパルタのアクロポリス(クリックで表示) 軍事強国で防衛をあまり考える必要がなかったスパルタは、前200年頃まで市壁を持たなかった。スパルタのアクロポリスは、アテナイのアクロポリスほどに急峻ではなく、歴史上もそこで大きな戦闘はほとんど知られていない。むしろそのすぐ西にある、中世ビザンツ帝国の城塞都市ミストラ(ミストラス)のほうが、難攻不落の要塞として有名で、現在では世界遺産になっている。 軍事強国で防衛をあまり考える必要がなかったスパルタは、前200年頃まで市壁を持たなかった。 スパルタのアクロポリスは、アテナイのアクロポリスほどに急峻ではなく、歴史上もそこで大きな戦闘はほとんど知られていない。むしろそのすぐ西にある、中世ビザンツ帝国の城塞都市ミストラ(ミストラス)のほうが、難攻不落の要塞として有名で、現在では世界遺産になっている。 アテナイがスパルタをやたらとライバル視しているのは、むしろ都市同士の確執によるものだろう。前5世紀末にアテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟はエーゲ海一帯の覇権を巡り30年近くに及ぶ戦争を行なっている。アケメネス朝ペルシアやシケリアなどの周辺諸国まで巻き込んだこのペロポネソス戦争は最終的にアテナイ側の敗北で終わったが、その後もアテナイは様々なやり方でスパルタに対抗し続けた。 喜劇と悲劇(クリックで表示) 前5世紀から前4世紀にアテナイで作られた悲喜劇のうち、30篇ほどの悲劇と、10数篇の喜劇がほぼ完全な形で伝わっている。多くはアクロポリス南麓にいまも残るディオニュソス劇場で、祭のときに上演された。現在残っている最古の劇は、前472年初演のアイスキュロスによる悲劇『ペルシア人』。 天罰(クリックで表示) 他のギリシャ世界の神々もそうだが、女神アテナも自身を蔑ろにしたり瀆神行為をする相手には強烈な罰を与えることで知られる。 特に聖所を汚された場合の神罰は大きく、神殿でポセイドンとことに及んだメドゥーサは怪物に変えられ、トロイア戦争終結後に神殿で王女カッサンドラを凌辱したロクリス王の小アイアスは、海路で故郷に帰る途上に嵐を送られ船を破壊された挙句にロクリス市民の子々孫々にまで及ぶ罰を受ける羽目になった。 サガナキ(クリックで表示) サガナキはギリシャの伝統的なチーズ料理で、一般的には羊乳チーズをオリーブオイルで炒めたものを指す。 言葉は「小さなフライパン」を意味し、このことからチーズ料理に限らず片手鍋で作れるような料理をサガナキと呼ぶこともある。語源自体はトルコ語由来。 現実の城情報アクロポリスとは「高い丘の上の都市」を意味し各地に存在している。その中でアテネにあるものが有名で、それがアテナイ・アクロポリスとなる。 現在は3方を断崖絶壁に囲まれた、海抜150メートルの巨大な石灰岩の上に築かれた神殿や砦が遺跡として健在する。 アクロポリスとは「高い(丘の上の)都市」を意味し各地に存在している。その中でアテネにあるものが有名で、それがアテナイ・アクロポリスとなる。 アテナイ・アクロポリスは「ケクロピア」という名でも知られており、これはアテナイの伝説上の王で半人半蛇のケクロプスに由来する。 現在は3方を断崖絶壁に囲まれた、海抜150メートルの巨大な石灰岩の上に築かれた神殿や砦が遺跡として存在する。 市街地からは70メートルの高さにあり、白いアテネ市街地が一望できる。 歴史(クリックで表示) アテナイのアクロポリスは、新石器時代には既に避難場所として使用されており、ミケーネ時代には支配者の宮殿が置かれた。 その後、アテナ女神信仰の場となり、最初の神殿が前590年頃に建てられた。 マラトンの戦いのあった第一次ペルシア戦争のあと、前488年から「古パルテノン神殿」が建てられた。 前480年の第二次ペルシア戦争で、ペルシア軍がアテネに攻め込んだとき、アクロポリスは陥落し、古神殿も全焼した。 しかし、その後のサラミスの海戦でペルシアに勝利したことで、アテネは最盛期を迎える。 現在アクロポリスに残る神殿群やプロピュライアなどは、全て前450年代〜前420年代に造られたものである。 アテネはヘレニズム期にも文化的中心のひとつだったが、第一次ミトリダテス戦争の時にスッラ麾下のローマ軍によって再度陥落(前87-86年)、アクロポリスも徹底的に略奪された。 ローマ帝政後期になると、アテネはもはや都市とは言えない状態にまで衰退する。 パルテノン神殿はビザンツ帝国期まではキリスト教教会、オスマン帝国期にはモスクとして存続したが、1687年のオスマン帝国とヴェネチアとの戦争で、向かいのフィロパッポスの丘から砲撃を受けて全壊した。 その後、1832年のギリシア独立後、首都として古代の文化的中心だったアテネが選定された(1834年)。 アテナイのアクロポリスは、その地形的な防衛能力の高さから新石器時代には既に避難場所として使用されていた。 紀元前15世紀のミケーネ文明時代にも要塞都市として重要な役割を持たされていたらしく、一説には支配者の宮殿が置かれていたとも言われる。 前13世紀に起きた大規模なドーリア人の侵略によってミュケナイやピュロスなどミケーネ文明の主要都市は大打撃を受けたのに対して、アテナイがどのような被害を蒙ったかは明らかでない。 少なくともアテナイ人自身は自分たちがドーリア人の血を引かない純粋なイオニア人であると主張していた。 いずれにせよ150年近い経済的停滞ののち交易を中心に発展したアテナイは、紀元前9世紀の時点では既に地中海世界でも有力なポリス(都市国家)の一つとなっていたようである。 その後、アクロポリスはアテナ女神信仰の中心的存在となり、最初の神殿は前590年頃に建てられたとされる。 また、前525年から前500年にかけては「古アテナ神殿」として知られる神殿がミケーネ時代の宮殿跡、アクロポリスの中心部(現在のパルテノン神殿とエレクテイオンの中間)に建設された。 マラトンの戦いのあった第一次ペルシア戦争の後、前488年からは「古パルテノン神殿」の建設が開始されたものの、前480年の第二次ペルシア戦争でペルシア軍がアテナイに攻め込んだ際にアクロポリスは陥落。未だ建設途中だった古パルテノン神殿を含め古神殿群は全焼した。 しかしながら、その後のサラミスの海戦でアテナイ艦隊を中心とするギリシャ連合海軍がペルシア海軍に勝利。戦後アテナイは強大な海軍を擁する海上貿易国家として躍進し、その最盛期を迎える。 現在アクロポリスに残る神殿群やプロピュライアなどは、全て前450年代-前420年代に造られたものである。 前431-前404年のギリシャ世界の覇権争いであるペロポネソス戦争においては最終的にスパルタに敗北を喫したアテナイだったが、有力なポリスとしての地位は失わずに存続した。 続くヘレニズム期にも文化的中心のひとつだったが、第一次ミトリダテス戦争の時にスッラ麾下のローマ軍によって再度陥落(前87-86年)、アクロポリスも徹底的に略奪された。 一方ローマが共和政から帝政に移り変わってからの皇帝の中にはネロやハドリアヌスなどギリシャ文化を愛好する者も少なくなく、ローマ支配下のアテネは文化・哲学の中心都市として多くの留学生も受け入れるなど再び隆盛を誇った。この時代には初代皇帝アウグストゥスを祀った小さな神殿もアクロポリスに追加されている。 しかし帝政後期になるとキリスト教の台頭も相まって、アテネは衰退の道を余儀なくされる。時流に逆らって古代ギリシャの文化復興を目指したローマ皇帝ユリアヌスは、その中心地であるアテネの再興も企図したもののペルシア遠征中に戦死してしまい、帝国の方針は再びキリスト教重視に戻った。 キリスト教の国教化やローマ帝国の東西分裂以後もアカデメイアなどの学術施設はアテナイで運営を続けたが、6世紀初頭、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌスがキリスト教以外の哲学を教えることを禁じたことによりギリシャ文化の都市としてのアテナイの歴史には事実上終止符が打たれた。 さらにスラヴ人の侵略を受けて荒廃したアテナイは、もはや都市とは言えない状態にまで凋落してしまった。 パルテノン神殿はビザンツ帝国期まではキリスト教教会、オスマン帝国期にはモスクとして存続したが、1687年のオスマン帝国とヴェネチアとの戦争で、向かいのフィロパッポスの丘からヴェネチア軍による砲撃を受けて爆発炎上、甚大な損害を負った。これは当時のパルテノン神殿が火薬の貯蔵庫としても使われていたことも大きな原因だった。 その後、1832年のギリシア独立後、首都として古代の文化的中心だったアテナイが選定された(1834年)。 その時にアクロポリスを中心にして、計画都市として改めて造られたのが、現在のアテネ市である。 1975年には大規模な修復事業が開始され、最新の研究成果を元にして往時のアクロポリスの姿が遺構という形ではあるが取り戻されつつある。
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