白石城 のバックアップの現在との差分(No.1)
城情報城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ | 白石城(しろいしじょう)は宮城県白石市(陸奥国刈田郡)にあった城。 白石盆地中央やや西部を南北にはしる独立丘陵の北端(標高76m)に築かれた平山城である。 戦国期、白石盆地は藤原北家秀郷流を称する白石氏が伊達家臣として治めていたが、この時代の拠点については不明瞭である。 奥州仕置によって、伊達氏が刈田郡を失い、かわりに蒲生氏郷が入ると、その家臣蒲生郷成によって本格的な築城が行われ、これが現在の白石城の基盤となっている。 その後上杉氏を経て、関ヶ原後再度伊達氏が刈田郡を領有することになると、重臣片倉景綱が入り、その後代々片倉氏が城主を務めた。 明治時代に入ると廃城令によって破却され更地となっていたが、1990年台に本丸天守にあたる三階櫓や一ノ門、二ノ門などが木造建築で復元され、公園として整備され現在に至る。 東日本大震災では三階櫓を中心に甚大な被害を受けたが、修繕にこぎつけている。
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
白石城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:下地紫野
画像イラストレーター:たいちょ
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 巫女服(クリックで表示) 片倉氏は元々は神職の家であり、片倉景綱の父景重は伊達氏の崇拝があつい成島八幡宮の神職であったとされている。 現在においても片倉氏当主は仙台市の青葉神社の宮司を務めている。 【特技・計略】 神石白石(クリックで表示) 白石城本丸の北にある「白石」の地名の由来となったといわれている凝灰岩の石。藩政時代には石を囲むように朱塗りの玉垣をめぐらし神石として祀られていた。 石の根っこは深く、40km以上離れた仙台市泉区の根白石(ねのしろいし)まで続いていると伝えられていることから近年は縁結びスポットとされている。 武振彦命(クリックで表示) 仙台藩祖伊達政宗の神号。 【セリフ】 宛名くらい(クリックで表示) 伊達政宗は手紙で固有名詞を略することが多く、片倉景綱と私的なやりとりをする際には宛名を「かた小(重長に家督を譲った後は『かた備』)」と書いていたことが知られている。 指月伏見様(クリックで表示) 片倉景綱は豊臣秀吉から高く評されており、秀吉は彼を直臣として取り立てようとした他、大名として三春5万石を与えようとしたともされている。 それ以外にも多くの有力者から評価が高く、彼宛の多くの書面が残されている他、徳川家康は江戸に彼の屋敷を与えようとしたなど、それを裏付ける証拠は多い。 現実の城情報白石城(しろいしじょう)は宮城県白石市(陸奥国刈田郡)にあった城で、伊達政宗の側近片倉景綱の居城として知られる。 奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地中央やや西部を南北にはしる独立丘陵の北端、盆地を南北に分断する白石川南岸の標高76メートルの城山に築かれた平山城である。 平安期に藤原北家秀郷流を称する藤原経元(刈田経元)が築いた城が始まりとされ、刈田氏はのちに白石氏を名乗った。 戦国期、白石盆地は白石氏が伊達家臣として治め、伊達輝宗・政宗の二代に渡って仕えた忠臣・白石宗実を出したが、この時代の拠点については不明瞭である。宗実は天正14年(1586年)に宮森城に移っており、代わって屋代景頼が白石城に入ったとされる。 奥州仕置によって伊達氏が刈田郡を失い、かわりに蒲生氏郷が入ると、その家臣蒲生郷成によって本格的な築城が行われ、これが現在の白石城の基盤となっている。蒲生氏によって上方の築城技術が導入された白石城は、本城である会津若松城や支城の二本松城や三春城などと同じく織豊系城郭として改修された。 続きをクリックで表示 蒲生氏郷の死後、その後を継いだ秀行が慶長3年(1598年)に宇都宮城に移ると会津には上杉景勝が入り、景勝は甘糟景継を白石城に入れて改修を行った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に白石城は上杉氏と伊達氏との攻防戦の舞台となり、『貞山公治家記録』によると「本丸」「二の丸」「中の丸」「厩郭」「帯郭」「三の丸」「外郭」などの曲輪があったとされ、これらは江戸時代の白石城の構造とほぼ一致していることから、上杉氏時代には白石城の原型がほぼ完成していたと考えられる。 関ヶ原の戦い後再度伊達氏が刈田郡を領有することになると、重臣片倉景綱が入り、その後代々片倉氏が城主を務め、歴代の片倉氏当主は明治維新に至る第13代まで初代景綱にならった「小十郎」を名乗った。 元々日本では先代の名を受け継ぐ襲名制は広く浸透した文化であるが、長期間同じ地を治め続けたことで知られる島津氏の「又三郎」、相馬氏の「孫次郎」ですら、ここまで長く通称の継承をし続けてはいない。 景綱は白石城の大改修を行い、本丸と二の丸を中心に中の丸、南の丸、巽曲輪、西曲輪、沼の丸、厩曲輪、帯曲輪が配置され、これらの周囲に館堀川を巡らせて天然の水堀とした。館堀川の外側には三の丸と外曲輪が配置して水堀と空堀で囲み、さらに外側に城下町が広がった。 最高所に設けられた本丸は高さ約9メートルの石垣で囲まれ、北西隅に建てられた三重櫓は「大櫓」よ呼ばれ、実質的な天守となった。 白石城は幕府による一国一城令後も城拝領によって例外的に城としての所有を認められ、明治維新まで存続した。天和3年(1683年)に描かれた「天和絵図」では、城の南側にあった埋門が半円形の土塁と三日月堀を持つ丸馬出に改修されており、白石城の城としての格式を内外に示すという伊達氏の意向によって造られたと考えられている。 幕末の戊辰戦争の際には白石城で白石列藩会議が開かれて奥羽越列藩同盟結成のきっかけとなり、白石城は新政府軍に占領されて盛岡藩の支配下に置かれたのち、明治8年(1875年)に廃城となった。 明治期に入ると廃城令によって破却され更地となっていたが、1990年台に本丸天守にあたる三階櫓や一ノ門、二ノ門などが木造建築で復元され、公園として整備され現在に至る。 平成23年(2011年)の東日本大震災では三階櫓を中心に甚大な被害を受け、国史跡でないことから修繕費用の財源が危ぶまれたものの、全国から集まった募金や寄付金の助けなどもあり修繕が行われた。 平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。 余談だが、白石市の名物に白石温麺(しろいしうーめん)がある。10cm程度と短めで素麺と冷麦の中間くらいの太さの麺で、胃腸の弱いの父のために油を使わない麺が作られたとされ、それを献上され気に入った片倉小十郎から温麺という名を賜ったという。 戊辰戦争に敗れ、白石城を没収されて領地をわずか数百分の一に縮小された片倉氏は、開拓のために北海道胆振国幌別郡(現・登別市)を一時領有する。この縁から白石市と登別市は姉妹都市として交流しており、登別市片倉町の登別市郷土資料館は白石城を模した外観で、片倉氏による開拓の歴史に関する展示もされている。また家臣の一部は石狩平野に入植し、入植地を故郷の名を取って白石村と名付け、現在は札幌市と合併して同市の白石区となっている。
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