川越城 のバックアップの現在との差分(No.2)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
川越城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:山川琴美
画像イラストレーター:えめらね
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 後ろ髪の毛先(クリックで表示) 別名が初雁城(はつかりじょう)であるためか、毛先がカモ科の水鳥の雁(かり)の羽根のようなデザインである。 この鳥は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重の名作の一つ「月に雁」のモデルになっている事でも有名で、これは日本切手のデザインにも採用されている。 山吹(クリックで表示) 城娘姿・御嬢姿に共通する黄色のデザインは山吹色を表しており、御嬢姿の上着についている花は山吹の花であろう。 ちなみに城娘姿の上着で黄色を表、裏に紅としているのは「裏山吹」と呼ばれる襲の組み合わせ。 これは太田道灌の逸話・山吹伝説にちなんでおり、山吹は川越市の市の花にも指定されている。 道灌が父の住む越生*4に行った時雨に降られ、一軒の家で笠を借りようとしたが、応対した家の娘は山吹の花を差し出すだけだった。 憤りながら濡れて帰った後で家臣に愚痴ったところ、家臣から「それは『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』でしょう」と「山吹の実がない(花しかない)」と「貸せる蓑がない」を掛けた返事だったと教えられた。 歌を知らなかった自分を恥じた道灌はこれ以降歌道に励むようになり、歌人としても高名を得たという。 【特技・計略】 河越夜戦(クリックで表示) 天文14年(1545年)9月、扇谷上杉朝定は山内上杉憲政および古河公方足利晴氏と呼応し挙兵。総勢7万とも8万とも号する大軍勢で城を包囲した。 さらに今川義元が駿河から北条領に侵攻したため、後北条家は東西から挟撃される事態になった。 これに対して河越城には城代大道寺盛昌に加えて北条綱成、北条宗哲(幻庵)の一門衆が援軍として入り、綱成が総指揮を執った。 8万の大軍勢には山内上杉の家臣・長野業正や上泉信綱、扇谷上杉の家臣・太田資正らに加え古河公方の陣には小田・結城・相馬など常陸勢も加わっていた。 関東の有力な諸将のほぼ全てが参陣し、一説には攻城側に加わらなかったのは下総の千葉利胤のみであったともされ、常陸の不死鳥・小田氏治(のちの小田城主)もここで初陣を飾ったという。 対する北条綱成の指揮下の城兵はわずかに3千人でしかなかったが、半年以上にわたって籠城を続けた。 11月には川越の南の砂久保に今川義元と和睦した北条氏康が来援するも、率いる兵は8千と包囲軍の十分の一でありまともにぶつかっても勝ち目はなかった。 氏康は山内上杉や古河公方の家臣・配下を通じて和睦を請うが一蹴された。敵を油断させる氏康の罠であったとも言われるが、実際の所は定かではない。 天文15年(1546年)4月、氏康は包囲側にも気の緩みや軍律の低下が見られるようになったことを知ると奇襲を決意する。 なお、その作戦を伝えるために守将・綱成の実弟、福島弁千代(孫二郎とも。のちの北条綱房)を女装させて単騎堂々と包囲を突破させ、川越城に入城させて連絡を取ったという逸話が残っている。 言い伝えによれば白い布襷あるいは紙切れを鎧の上からつけて敵味方を識別し、敵を討っても首は捨て置くことを配下の将兵に厳命したとされる。 4月20日(旧暦)夜半、氏康は側近の多目元忠に後詰を任せ、自らはその他の軍とともに夜襲を決行。同時に城内からも綱成以下城兵が一挙に打って出て連合軍の陣を襲撃した。 連合軍は大混乱に陥り一気に瓦解し、裏切りなどの流言さえ飛び交い一部では混乱のあまり同士討ちなども生じたといい、まず古河公方が撤退。 山内上杉憲政は本陣に突撃されて敗走、撤退戦の中で本間近江守や倉賀野行政といった重臣を失う大損害を被る。 そして扇谷上杉朝定は家老・難波田憲重(善銀)とともに討ち死にし、扇谷上杉家はここに滅亡した。 氏康が余りにも追撃戦にのめりこみすぎたため、後詰を任された多目に法螺貝を何度も何度も吹き鳴らされてやっと止まったという逸話も有名である。 一連の戦いでの連合軍側の死傷者総数は1万3千から5千にも及んだと言われ(討ち死にだけでも約3千)、武蔵の情勢は一気に後北条側に傾いた。 ただし、河越夜戦については断片的な史料しか残っておらず、逸話の幾つかは軍記物をもとにしており信憑性が低いともされる。 しかしこの時期に川越城をめぐる大規模な戦闘があったこと自体はほぼ間違いなく、その中で朝定が死亡し扇谷家が滅亡したこと、山内家の重臣クラスが何人か戦死したこと、その戦いによって後北条家の武蔵南部の支配がほぼ確立されたことは確実である。 川越城七不思議(クリックで表示) 川越城に伝わる七つの伝承を総称して七不思議と称し、川越市ではこのゆかりの地を巡るルートを散策コースの一つに制定している。 七つのうち五つまでが水に関係するもので、湿地帯と台地の間に築かれた川越城と水の関係の深さが見える、かもしれない。 初雁の杉北から飛んできた初雁が三芳野神社にあった杉の木の上で必ず三度回り三回鳴いて飛び去った。このことから初雁城と呼ぶようになった。 現在も三芳野神社の本堂の裏に杉の木があり、これは記録によると三代目である。城跡の初雁公園に名前が残る他、川越市の異称としても初雁を用いる。 霧吹きの井戸城が攻められたときにこの井戸の蓋を取ると霧が噴き出し、城の姿を覆い隠して敵軍を攻めあぐねさせた、と伝わる。このことから城は霧隠の城とも呼ばれた。 市立博物館の前庭に霧吹きの井戸として移設展示されている井戸があるが、本物か別のものなのかは定かでない。 竜神の人身御供川越城の下側には七ツ釜と呼ばれる深い沼地があり、太田親子は築城に難儀していた。 ある夜、道真の夢枕に竜神が立ち「明日の朝一番早く現れたものを差し出せ」と言う。道真はしぶしぶ了承したが、朝現れたのは道真の娘の世禰姫だった。 驚く道真に、姫もまた竜神が夢枕に立ったと言い、自ら志願して人柱となった。その後は築城が順調に進んだという。 天神洗足の井戸道灌(または道真)が濠の水源を探して築城予定地を見回っていると、天神社(三芳野神社)の近くで老爺が足を洗っていた。 老爺の案内で水源を見事に見つけたものの、その後老爺と再会することはなくどれだけ探しても見つからなかった。 道灌は「あの老人は天神の化身であったのだ」と思い、泉を天神洗足の井戸と名づけ丁重に扱った。 七ツ釜片葉の葦戦に破れて城が落ち、宵闇に紛れて落ち延びようとした城の姫君が七ツ釜の沼に落ちてしまった。 何とか這い上がろうと岸辺の葦をつかんだが葦の葉は千切れてしまい、姫君は千切れた葉をつかんだまま水に沈んでしまった。 これ以降、その場所には片側にしか葉がない葦が生えるようになったという。 遊女川の小石供養河越の郊外の村娘が、殿様の鷹狩りの供で村に来た城の若侍と恋に落ちてやがて結婚した。しかし姑の嫁いびりが厳しく、ついに遊女川の淵に身を投げて死んでしまった。 嘆き悲しんだ夫が淵に小石を投げ入れると川底から泡が立ち、返事をしているように聞こえた。それから人々はここを通るとき小石を投げ入れて娘を供養するようになった。 城中蹄の音家康が江戸に入った後、川越には酒井重忠が配された。あるとき重忠が寝ていると馬が駆け回る蹄の音がして、しかもこれが毎晩繰り返される。 たまりかねて占わせると「城内に戦の絵がある」と出た。家来に探させると蔵の中から堀川夜討の絵屏風が出てきた。そこでこれを城下の養寿院に寄進すると、以後蹄の音は聞こえなくなった。 【セリフ】 文武両道(クリックで表示) 川越城を築いた太田道灌は文武両道の武将として知られる。詩歌に優れるだけでなく戦場でも生涯数えるほどしか負けなかった。 道灌の父・道真も歌道においては道灌以上とも言われた文武両道の武将であった。また江戸幕府時代の歴代藩主も文武両道を奨励した。 川越城本人に関する関連でいうと、本丸御殿が川越城破却以来庁舎や学校、武道館に使われた。学校時代にはなんと体育館としても使われ、天井にはバレーボールの跡がついていたりする。 ちなみに川越周辺では庶民層の教育も盛んで、室町時代から明治時代まで続いていた寺子屋もあったという。 三貫清水(クリックで表示) 太田道灌に「三貫文の値うちのある湧き水」と称された。 太田道灌が狩りに出かけ、とある村でお茶を立てて歓待された。 道灌はその美味しさに感動して、三貫文(およそ50万円)の褒美を授けたことから、その水を汲んだ泉を三貫清水と呼ぶようになった。 因みにこの逸話は川越ではなく、川を渡った隣のさいたま市北区の伝承。泉のあったとされる所は今も緑地として保護されている。 狩りではなく川越城と岩槻城を行き来する途中に立ち寄ったともいう。 驕らざる者も久しからず(クリックで表示) これもまた太田道灌の逸話から。道灌は子供のころから才知に長けており、その幼少時代の逸話として知られる。 父の道真は道灌が驕り高ぶらないかと心配し、平家物語の有名な一文「驕者不久(驕れる者は久しからず)」を見せて説教した。 しかし道灌はこれに二文字加えて「不驕者亦不久(驕らざる者もまた久しからず)」(驕らなくても人はそのうち死にますよくらいの意味)としてしまい、道真を黙らせてしまったという。 かねて亡き身と思い知らずば(クリックで表示) 太田道灌の辞世の句として伝えられている「かかる時さこそ命の推しからめ かねて亡き身と思い知らずば」から。 太田家の家集として伝えられる『慕景集』に所収されている歌で、道灌が主君に暗殺される間際にとっさに詠んだエピソードが有名。 しかし実際には詠んだ経緯や詠み手(道灌ではなく父道真の作とする説など)も含めて諸説がある。 道灌の死の間際と言えば「当方滅亡!」と叫んだというほうが有名かもしれない。 現実の城情報長禄元年(1457年)に扇谷上杉持朝が古河公方に対抗するため、太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて武蔵国河越に築城した城。 続きをクリックで表示 築城後は扇谷上杉家の武蔵における居城として、足利古河公方との抗争(享徳の乱)、山内上杉家の武将長尾景春の反乱、道灌謀殺後の扇谷・山内両上杉家の対立(長享の乱)などにおいて有力な拠点として用いられた。 明応6年(1497年)には山内上杉顕定が河越館に陣所を築き、足利公方足利政氏を招いてともに川越城の扇谷上杉朝良を攻めた。 引き続いて永正の乱が起こると伊勢宗瑞・北条*5氏綱親子が勢力を拡大。扇谷家は甲斐武田・山内上杉の助力を得て対抗する。 しかし北条家は勢力を拡大していき、大永4(1524)年に江戸城・岩槻城が陥落させられると川越城も激しい争奪戦の舞台となる。 しかし北条家は勢力を拡大していき、大永4(1524)年に江戸城(千代田城)・岩槻城が陥落させられると川越城も激しい争奪戦の舞台となる。 江戸城落城後から天文13年(1544年)まで大きく分けて4度の争奪戦が繰り広げられた。 天文6年(1537年)4月に上杉朝興が没し、子の朝定が12歳で当主となるが、隙をついた氏綱が同年7月に川越城を攻めて落城する。 朝定は松山城に敗退し、北条の城となった川越城には氏綱の三男為昌(玉縄城主でもあった)が入ったが、のちに若くして病死する。 朝定は松山城に敗退し、北条の城となった川越城には氏綱の三男為昌(玉縄城主でもあった)が入ったが、のちに若くして病死する。 その後は重臣・大道寺氏が城代として入り「河越衆」がその下に配され、危急の際には北条綱成のような一門衆が援軍として入った。 天文10年(1541年)に北条氏綱が死去、氏康がその後を継ぐ。 豊臣勢が入城した際に『馬出しを崩し堀を埋めた』という内容の城下住民の日記があり、徳川初期は北条氏時代より城が狭かったと思われる。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造武蔵野台地の北東端に位置する平山城である。標高は最も高いところでも20メートル程度しかないが、台地の端であるため台地下側とは5~8メートル、場所によって10メートル以上も比高がある。 武蔵野台地の北東端に位置する平山城だった。標高は最も高いところでも20メートル程度しかないが、台地の端であるため台地下側とは5~8メートル、場所によって10メートル以上も比高がある。このように往時は平山城であったが、宅地造成により現在は平城となっている。 台地端を西から北へ回りこむように流れる赤間川を天然の堀とし、更に外に入間川がある。南は赤間川の支流遊女川の湿地帯(大沼)だった。 築城当時から江戸初期の間は東側は入間川辺りまで湿地帯であり、そちらから見ると忍城に近い浮き城でもあった。 台地の端にあり入間川・赤間川とその支流に囲まれ、守りの城を置くには好適な立地であった。 またその周辺は穀倉地帯でもあり、近在の坂戸(坂戸城の坂戸とは別)付近には鎌倉街道も通っていてこれを抑えるにも適していた。 築城当時の縄張りは「道灌がかり」という連郭式に類されるもので、本城から外に子城、中城、外城と呼ぶ独立した曲輪をつなげていくものであった。 松平信綱による大改修は、このような配置であった川越城をさらに東西に拡大するように行なわれた。 明治維新期には川越藩主・松平康英によって、新政府軍への恭順を示すため一部の堀が自主的に埋め立てられた。現存する堀跡もいくつかある。 二の丸は川越市立博物館と美術館の敷地となり、本丸には本丸御殿が残存するが、本丸御殿が現存する城は高知城と川越城の2城のみである。 二の丸は川越市立博物館と美術館の敷地となり、本丸には本丸御殿が残存するが、本丸御殿が現存する城は高知城と掛川城、二条城そして川越城と希少。 市立博物館には江戸期川越城の精密模型、および川越城下町のジオラマがある。 本丸御殿は嘉永元年(1848年)に築造され、明治の破城令ののち次第に解体されたが、大広間及び玄関部分だけは一時役所、学校、道場などとして使われた。 河越城の戦い(河越夜戦)(クリックで表示) 河越城の戦い(河越夜戦)天文14年(1545年)9月、扇谷上杉朝定は山内上杉憲政および古河公方足利晴氏と呼応して挙兵。総勢7万とも8万とも号する大軍勢で城を包囲し、河越城の戦いが始まった。 さらに今川義元が駿河から北条領に侵攻したため、後北条家は東西から挟撃される事態になった。 これに対して河越城には城代大道寺盛昌に加えて北条綱成、北条宗哲(幻庵)の一門衆が援軍として入り、綱成が指揮を執った。 8万の大軍勢には山内上杉の家臣・長野業正や上泉信綱、扇谷上杉の家臣・太田資正など関東の諸将ほぼ全てが参陣し、一説には攻城側に加わらなかったのは千葉利胤のみであったともされる。 対する北条綱成の指揮下の城兵はわずかに3千人でしかなかったが、半年以上にわたって籠城を続けた。 11月には川越の南の砂久保に今川義元と和睦した北条氏康が来援するも、率いる兵は8千と包囲軍の十分の一でありまともにぶつかっても勝ち目はなかった。 氏康は山内上杉や古河公方の家臣・配下を通じて和睦を請うが一蹴された。敵を油断させる氏康の罠であったとも言われるが、実際の所は定かではない。 天文15年(1546年)4月、氏康は包囲側にも気の緩みや軍律の低下が見られるようになったことを知ると奇襲を決意する。 なお、その作戦を伝えるために守将・綱成の実弟、福島弁千代(孫二郎とも。のちの北条綱房)を女装させて単騎堂々と包囲を突破させ、川越城に入場させて連絡を取ったという逸話が残っている。 言い伝えによれば白い布襷あるいは紙切れを鎧の上からつけて敵味方が分かるようにし、敵を討っても首は捨て置くことなどを配下の将兵に厳命したとされる。 4月20日(旧暦)夜半、氏康は側近の多目元忠に後詰を任せ、自らはその他の軍とともに夜襲を決行。同時に城内からも綱成以下城兵が一挙に打って出て連合軍の陣を襲撃した。 連合軍は大混乱に陥り一気に瓦解し、裏切りなどの流言さえ飛び交い一部では混乱のあまり同士討ちなども生じたといい、まず古河公方が撤退。 憲政も本陣に突撃されて敗走、撤退戦の中で本間近江守や倉賀野行政といった重臣を失う大損害を被る。そして朝定は家老・難波田憲重とともに討ち死にし、扇谷上杉家はここに滅亡した。 氏康が余りにも追撃戦にのめりこみすぎたため、後詰を任された多目に法螺貝を何度も何度も吹き鳴らされてやっと止まったという逸話も有名である。 一連の戦いでの連合軍側の死傷者総数は1万3千から5千にも及んだと言われ(討ち死にだけでも約3千)、武蔵の情勢は一気に後北条側に傾いた。 ただし、河越夜戦については断片的な史料しか残っておらず、逸話の幾つかは軍記物をもとにしており信憑性が低いともされる。 しかしこの時期に川越城をめぐる大規模な戦闘があったこと自体はほぼ間違いなく、その中で朝定が死亡し扇谷家が滅亡したこと、山内家の重臣クラスが何人か戦死したこと、その戦いによって後北条家の武蔵南部の支配がほぼ確立されたことは確実である。 童謡『とおりゃんせ』(クリックで表示) 『とおりゃんせ』わらべ歌の『とおりゃんせ』のモデルとなったのが川越城といわれている。城内の三芳野神社(天神様)は古くから信仰を集めていたが、城が築かれて参拝できなくなってしまった。 川越城七不思議(クリックで表示) 川越城七不思議川越城に伝わる七つの伝承を総称して七不思議と称し、川越市ではこのゆかりの地を巡るルートを散策コースの一つに制定している。 七つのうち五つまでが水に関係するもので、湿地帯と台地の間に築かれた川越城と水の関係の深さが見える、かもしれない。 初雁の杉北から飛んできた初雁が三芳野神社にあった杉の木の上で必ず三度回り三回鳴いて飛び去った。このことから初雁城と呼ぶようになった。 現在も三芳野神社の本堂の裏に杉の木があり、これは記録によると三代目である。城跡の初雁公園に名前が残る他、川越市の異称としても初雁を用いる。 霧吹きの井戸城が攻められたときにこの井戸の蓋を取ると霧が噴き出し、城の姿を覆い隠して敵軍を攻めあぐねさせた、と伝わる。このことから城は霧隠の城とも呼ばれた。 市立博物館の前庭に霧吹きの井戸として移設展示されている井戸があるが、本物か別のものなのかは定かでない。 竜神の人身御供川越城の下側には七ツ釜と呼ばれる深い沼地があり、太田親子は築城に難儀していた。 ある夜、道真の夢枕に竜神が立ち「明日の朝一番早く現れたものを差し出せ」と言う。道真はしぶしぶ了承したが、朝現れたのは道真の娘の世禰姫だった。 驚く道真に、姫もまた竜神が夢枕に立ったと言い、自ら志願して人柱となった。その後は築城が順調に進んだという。 天神洗足の井戸道灌(または道真)が濠の水源を探して築城予定地を見回っていると、天神社(三芳野神社)の近くで老爺が足を洗っていた。 老爺の案内で水源を見事に見つけたものの、その後老爺と再会することはなくどれだけ探しても見つからなかった。 道灌は「あの老人は天神の化身であったのだ」と思い、泉を天神洗足の井戸と名づけ丁重に扱った。 七ツ釜片葉の葦戦に破れて城が落ち、宵闇に紛れて落ち延びようとした城の姫君が七ツ釜の沼に落ちてしまった。 何とか這い上がろうと岸辺の葦をつかんだが葦の葉は千切れてしまい、姫君は千切れた葉をつかんだまま水に沈んでしまった。 これ以降、その場所には片側にしか葉がない葦が生えるようになったという。 遊女川の小石供養河越の郊外の村娘が、殿様の鷹狩りの供で村に来た城の若侍と恋に落ちてやがて結婚した。しかし姑の嫁いびりが厳しく、ついに遊女川の淵に身を投げて死んでしまった。 嘆き悲しんだ夫が淵に小石を投げ入れると川底から泡が立ち、返事をしているように聞こえた。それから人々はここを通るとき小石を投げ入れて娘を供養するようになった。 城中蹄の音家康が江戸に入った後、川越には酒井重忠が配された。あるとき重忠が寝ていると馬が駆け回る蹄の音がして、しかもこれが毎晩繰り返される。 たまりかねて占わせると「城内に戦の絵がある」と出た。家来に探させると蔵の中から堀川夜討の絵屏風が出てきた。そこでこれを城下の養寿院に寄進すると、以後蹄の音は聞こえなくなった。 コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示