大洲城 のバックアップの現在との差分(No.14)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
大洲城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:加藤英美里
特殊ボイス: 利用可能 画像イラストレーター:九十九
改壱
現実の城情報伊予宇都宮氏が200年以上に渡って居城とした城で、築城の名手・藤堂高虎が手がけた城としても知られる。 伊予宇都宮氏は下野の名門・宇都宮氏の分家である豊前宇都宮氏の豊房が鎌倉幕府から伊予守護に任じられたことに始まり、元弘元年(1331年)に築かれた地蔵ヶ嶽城が大洲城の前身となる。 地蔵ヶ嶽城の築城時、石垣が何度も崩れたことから「おひじ」という女性が人柱が立てられることとなり、彼女の名を取って城下を流れる川は「肱川」と名付けられ、城は「比志城」とも呼ばれたという。 以後地蔵ヶ嶽城は伊予宇都宮氏の本城として南伊予支配の中心となり、当時は「大津」だった地名から大津城とも呼ばれるようになった。 続きをクリックで表示 伊予では守護の河野氏に国人の伊予宇都宮氏や西園寺氏などが対抗するという状況が続き、戦国時代にはこれに中国の毛利氏や九州の大友氏が絡み、伊予宇都宮氏は大友氏と結んだ土佐一条氏の支援を受け、毛利氏と結んだ河野氏を攻撃した。 しかしこれが毛利氏の伊予出兵を招き、永禄11年(1568年)に宇都宮豊綱は鳥坂峠の戦いで大敗して毛利氏に捕らえられ、大津城には河野氏の家臣である大野直昌が入った。 やがて直昌は長宗我部氏と結んだ弟の直之に城を奪われ、直之もまた天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐の際に小早川隆景に敗れ、大津城には隆景が入り湯築城の支城とした。 隆景は天正15年(1587年)の九州征伐後に名島城に移り、大津城には戸田勝隆が入り居城とした。 勝隆が文禄・慶長の役で病死すると文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入り、大洲城は高虎によって近世城郭に改修され、この時代に城下町を整備されていった。 慶長14年(1609年)には洲本城から脇坂安治が入り、諸説はあるがこの時に洲本城の天守が移築され、「大津」の地名が「大洲」に変わったともされる。 脇坂氏は藤堂氏時代の改修を引き継いで城と城下の整備を進め、この時代に大洲城はほぼ完成した。 大洲城は肱川を背後の守りとした後ろ堅固な城で、標高約40メートルの地蔵ヶ嶽に本丸を置いてその周囲を二の丸が取り囲み、これらが肱川の水を取り込んだ幅広い水堀で守られていた。 二の丸をL字型に囲む三の丸には武家屋敷が置かれ、その周囲に外堀を設けて城域を定め、城内には四重四階の天守の他に18基の櫓が配置された。 元和3年(1617年)に加藤貞泰が入ってからは大きな改修は行われず、以後加藤氏12代の居城として明治維新を迎えた。 大洲城は明治3年(1871年)に廃城となり多くの建築物が取り壊されたが、台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓・三の丸南隅櫓は保存され、昭和32年(1957年)に重要文化財に指定された。 天守は明治21年(1888年)に解体されたものの、平成16年(2004年)に伝統工法を用いて復元され、現在に至っている。 特技名になっている「肱川あらし」は10月から3月まで見られる自然現象で、晴れた日の朝に上流の大洲盆地で涵養された冷気が霧を伴って肱川沿いを一気に流れ出すという珍しい現象。
城娘の元ネタ情報【デザイン】 たすき掛けしているカバン(クリックで表示) 計略の名称にもなっているが、大洲城下台所がモデルか。 槌の形状(クリックで表示) 大洲城の台所櫓などにある鬼瓦がモデルか。改壱では鯱がついている。 着物の柄(クリックで表示) 大洲城のある城山公園に200本近くあるソメイヨシノだろうか、見頃には夜桜がライトアップされるなど名所にもなっている。 【特技・計略】 肱川あらし(クリックで表示) 10月から3月まで見られる自然現象で、晴れた日の朝に上流の大洲盆地で涵養された冷気が霧を伴って肱川沿いを一気に流れ出すという珍しい現象。 大洲の下台所(クリックで表示) 大洲城内に現存する数少ない建造物の一つ「下台所」。 土蔵のような見た目をした高床構造の建物で食糧庫としての役割を果たしていたと考えられている。 また、施設としても実装されているが、台所機能のある「台所櫓」という櫓もあり、ちゃんと排煙用の窓もある充実ぶり。 【セリフ】 打鮑よし、勝栗よし、昆布よぉし♪(クリックで表示) 古来戦場に赴く直前の出陣式で大将が食べたもの。「敵に打ち、勝ち、喜ぶ」という意味。 勝って帰った場合は、帰陣式(凱旋式)で「敵に勝ち、家(うち)、喜ぶ」という意味で勝栗、打鮑、昆布の順番に食べる。 現実の城情報伊予宇都宮氏が200年以上に渡って居城とした城で、築城の名手・藤堂高虎が手がけた城としても知られる。 伊予宇都宮氏は下野の名門・宇都宮氏の分家である豊前宇都宮氏の豊房が鎌倉幕府から伊予守護に任じられたことに始まり、元弘元年(1331年)に築かれた地蔵ヶ嶽城が大洲城の前身となる。 地蔵ヶ嶽城の築城時、石垣が何度も崩れたことから「おひじ」という女性が人柱が立てられることとなり、彼女の名を取って城下を流れる川は「肱川」と名付けられ、城は「比志城」とも呼ばれたという。 以後地蔵ヶ嶽城は伊予宇都宮氏の本城として南伊予支配の中心となり、当時は「大津」だった地名から大津城とも呼ばれるようになった。 続きをクリックで表示 伊予では守護の河野氏に国人の伊予宇都宮氏や西園寺氏などが対抗するという状況が続き、戦国時代にはこれに中国の毛利氏や九州の大友氏が絡み、伊予宇都宮氏は大友氏と結んだ土佐一条氏の支援を受け、毛利氏と結んだ河野氏を攻撃した。 しかしこれが毛利氏の伊予出兵を招き、永禄11年(1568年)に宇都宮豊綱は鳥坂峠の戦いで大敗して毛利氏に捕らえられ、大津城には河野氏の家臣である大野直昌が入った。 やがて直昌は長宗我部氏と結んだ弟の直之に城を奪われ、直之もまた天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐の際に小早川隆景に敗れ、大津城には隆景が入り湯築城の支城とした。 隆景は天正15年(1587年)の九州征伐後に名島城に移り、大津城には戸田勝隆が入り居城とした。 勝隆が文禄・慶長の役で病死すると文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入り、大洲城は高虎によって近世城郭に改修され、この時代に城下町を整備されていった。 慶長14年(1609年)には洲本城から脇坂安治が入り、諸説はあるがこの時に洲本城の天守が移築され、「大津」の地名が「大洲」に変わったともされる。 脇坂氏は藤堂氏時代の改修を引き継いで城と城下の整備を進め、この時代に大洲城はほぼ完成した。 大洲城は肱川を背後の守りとした後ろ堅固な城で、標高約40メートルの地蔵ヶ嶽に本丸を置いてその周囲を二の丸が取り囲み、これらが肱川の水を取り込んだ幅広い水堀で守られていた。 二の丸をL字型に囲む三の丸には武家屋敷が置かれ、その周囲に外堀を設けて城域を定め、城内には四重四階の天守の他に18基の櫓が配置された。 元和3年(1617年)に加藤貞泰が入ってからは大きな改修は行われず、以後加藤氏12代の居城として明治維新を迎えた。 大洲城は明治3年(1871年)に廃城となり多くの建築物が取り壊されたが、台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓・三の丸南隅櫓は保存され、昭和32年(1957年)に重要文化財に指定された。 天守は明治21年(1888年)に解体されたものの、平成16年(2004年)に伝統工法を用いて復元され、現在に至っている。
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