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小倉城 のバックアップ(No.4)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
小倉城/ステータス
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| 初期配置 | 巨大化 | ||||||||||||||
| 突破 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | Lv | 耐久 | 攻撃 | 防御 | 範囲 | 回復 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 改 壱 ★ 7 | 0 | 50 | 340 | 20 | 50 | 612 | 30 | ||||||||
| 0 | 55 | 340 | 21 | 55 | 612 | 31 | |||||||||
| 0 | 60 | 60 | |||||||||||||
| 0 | 65 | 65 | |||||||||||||
| 0 | 70 | 70 | |||||||||||||
| 0 | 75 | 75 | |||||||||||||
| 0 | 80 | 340 | 26 | 80 | 612 | 39 | |||||||||
| 1 | 85 | 340 | 27 | 85 | 612 | 40 | |||||||||
| 1 | 90 | 340 | 28 | 90 | 612 | 42 | |||||||||
| 2 | 95 | 340 | 29 | 95 | 612 | 43 | |||||||||
| 2 | 100 | 340 | 30 | 100 | 612 | 45 | |||||||||
| 3 | 105 | 340 | 31 | 105 | 612 | 46 | |||||||||
| 3 | 110 | 4900 | 588 | 337 | 340 | 32 | 110 | 9800 | 1058 | 674 | 612 | 48 | |||
| 4 | 115 | 115 | |||||||||||||
| 4 | 120 | 120 | |||||||||||||
| ▼ | クリックで地形ボーナス込みのステータスを表示 |
地形ボーナス込みステータス
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における生アフレコでそのヤンデレっぷりを遺憾なく発揮した。ヤンデレ好き必見。小倉城に幽閉されたい・・・CV担当:今井麻美
| ▼ | ←クリックすると台詞一覧が表示されます。 |
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イラストレーター:azuタロウ
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【デザイン】
【特技・計略】
【セリフ】
こうなったら、殿を幽閉するしか……(クリックで表示)
明智光秀の娘であり細川忠興の妻であるガラシャが本能寺の変ののちに、忠興によって味土野に幽閉されたという逸話からか。
ただし、「幽閉」という言葉が強く意識されるようになったのは司馬遼太郎の小説『胡桃に酒』によるものと考えられ、現在味土野の地には『細川忠興夫人隠棲地』と「隠棲」という言葉を使った石碑が立てられている。
忠興はガラシャが光秀の親族として処刑されることを恐れて遠ざけたのであり、「幽閉」時に子供(のちの細川興秋)を授かっていることからも分かるように夫婦仲が険悪になったわけではなかった。
文永年間(1264年~1275年)頃、緒方大膳惟重が居城としたのが史料上の初見であり、関門海峡を挟んで本州と九州を結ぶ交通の要衝として機能した城である。
その後何度も城主が変わったが、永禄12年(1569年)には、毛利氏らと結んで大友氏に謀反を起こしていた高橋鑑種(紹運の養父)が降伏し、領地替えで入城している。
天正6年(1578年)に鑑種の養嗣子となった元種はのちに豊臣秀吉の中国攻めを受けて、小倉城を開城。代わって、森勝信(のちの毛利勝信)が城主となった。
なお上記の通り、森から毛利の改名であるため、毛利は「もうり」ではなく「もり」と読むのが正しいとされる。
いずれにせよ勝信は、関ヶ原の戦いでは子の吉政(俗に勝永)とともに西軍についたが、終戦後改易となり、代わって細川忠興が豊前一国を領した。
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忠興は当初中津城に入城していたが、交易の利便性や城下町の発展を見越して慶長7年(1602年)から7年の歳月をかけて小倉城を大改築し自らの居城とした。
寛永9年(1632年)、細川氏が肥後国に転封したのち、小笠原忠真が豊前小倉藩15万石の藩主として入封し、以後幕末まで小笠原氏の居城となった。
道を挟んで向かい側にある小倉城庭園(通称:小笠原会館)の一角は当時16億円を投じてヒノキ材によって木造再現された。庭園の総面積は9000㎡で、書院と池泉回遊式庭園を中心に構成される。
朱印船貿易の盛んであった小倉の町は17世紀末期に一時陰りを見せる。ドイツ人医師のケンペルが参府した元禄4年(1691年)には「曽ては富裕にして殷賑たる市」であったと振り返っている。
しかし、五雲亭貞秀が錦絵を描いた江戸末期には活況を取り戻し、諸国の旅人の往来で宿屋は溢れ、商家の暖簾がはためいた。その繁栄は久留米・福岡をしのぐほどであったという。
石垣の構成はそのほとんどを野面積みで積んであるが、場所によっては打込接の布積みをおこなっている。
天守は野面積みの石垣の上に建てられた4重5階のもので、上の階の方が下の階よりも大きい南蛮造りのものであったというが、天保8年(1837年)に焼失してしまう。
しかし昭和34年(1959年)に本来は質素な層塔型天守であった小倉城が、唐破風、比翼千鳥破風、入母屋破風を新たに施してコンクリート造りで再建された。因みに連結する続櫓は入母屋造り本瓦葺きの二層様式となっている。
主な門には鉄門、大手門、欅門、虎ノ門、多聞口門があるがそのすべては礎石を残し消失している。雨風によって風化が進んでいるため、もし再建するとすれば礎石に合わせた光付け作業で苦労するだろうか。
余談だが、勝信の子・吉政は大坂の陣では牢人五人衆に数えられた猛将である。
夏の陣の天王寺口の戦いでは、本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純を撃破。
一時は徳川家康の本陣にまで迫ったものの撤退を余儀なくされたが、享保5年(1720年)頃に成立した『塩屋縁起翁草』では「惜しいかな、後世真田を言いて、毛利を言わず」と評された。
| 所在地 | 福岡県北九州市小倉北区 |
| 現存状態 | 石垣、堀 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城(水城) |
九州屈指の譜代大名・小笠原忠真(クリックで表示)
播磨国の明石城城主小笠原忠真(初名は忠政)が小倉城に入城したのは寛永9年(1632年)だった。細川忠興が小倉城を大改修して30年目のことである。
藩主替えで小倉藩細川家2代目の忠利が54万石を賜って肥後に移るが、これは加藤忠広(清正の息子)が謀反ありの噂から改易されたことに起因する。
徳川家康以来、外様大名に対し過剰ともいえる措置(取り潰し・減封)で政権を維持してきた幕府を鑑みれば当然の対応であった。肥後国はその後細川家が代々藩主を務めるものの、今でも熊本県の英雄は加藤清正ひとりである。
小笠原家は新羅三郎義光の流れを汲む清和源氏で、義光の子孫・加賀美遠光の子長清が甲斐国巨摩郡小笠原村に住んで、小笠原氏を名乗った。小笠原氏は武家の礼法「小笠原流」で世に知られる。
独特なところでいえば、通常茶会でお茶を戴いたあとはそっと椀を戻すだけであるが、小笠原流のばあいは椀の口が下を向くようにひっくり返して戻すという特徴がある。
忠興の後任に忠真をおいた背景には、徳川家との血のつながりと家柄を買ってのことであった。忠真の母は家康の孫であり、小笠原家は有力な譜代大名であったため、外様大名の犇めく九州で監視役とする狙いがあったのだろう。
入城に際しては「豊前国は九州要衝の地たるにより、鎮護せしむるの条、何事によらず相かわる儀こそあらば、早速言上いたすべし」という上意があったという。徳川幕府の初期、まだ九州の地が不安定であったことを示す。
忠真は紫側の主要口を固め、諸藩の大名宿舎を集中させて「九州探題」の役割を果たした。また藩の財政充実を第一にした税制の改革、旧藩の明石商人の導入など城下町の充実を図った。
文化において新風をもたらしたのは福聚寺の創建である。忠真は黄檗宗開祖の明僧・隠元の高弟即非如一に深く帰依していた。足立山の麓に彼を開山とした寺院の建立を計画するほどであった。
当時は幕府の布く寺院統制が厳しく新しい寺の創建は相当に困難であったが黄檗宗寺院のみは例外として創建を許されたという。これを機に小倉を中心として黄檗禅による書画、工芸が興り城下町は華やいだ。
城下町の再編、税制改革ならびに黄檗文化の花を咲かせた九州探題の豊前国小倉藩主・小笠原忠真の遺産は細川忠興とともに小倉の町に色濃く残っている。
福岡城とは犬猿の仲?(クリックで表示)
豊前国に約40万石で入封した細川忠興は小倉城城主であり初代藩主、約52万石で筑前国へ大封した黒田長政は福岡藩主ならびにのちの福岡城城主である。
ともに関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍で活躍した仲ではあるが、実を言うと隣同士仲が悪かったという。
ことの発端は引っ越しに際した年貢米の処置であった。通常、武士の作法として引っ越しの際は後継領主のため年貢米は置いてゆく。もちろん丹後から豊前へ引っ越す際に忠興は礼儀に倣った。
しかし、他方の黒田長政は年貢米をもって筑前国に移動したため、これを善しとしない忠興は家康に訴えたが、開府前に口を出すことを嫌がった家康は問題を放置した。
腹を立てた忠興は水軍(番船)を門司に配備し、大坂で換金するため出港しようとする福岡藩を拿捕する手に出たのだ。
黒田水軍と細川水軍の一触即発の事態に驚愕した山内一豊(土佐高知藩)と片桐且元(大和竜田藩)は慌てて仲裁に入り、福岡藩が年貢米を分割で返還する約束を取り付け決着した。
ただ福岡藩の返済が完了したのは慶長7年(1602年)の5月、開藩より約2年を費やしの返還であった。この事件以来二人は犬猿の仲となってしまう。
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