ブラン城 のバックアップの現在との差分(No.6)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
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ブラン城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:中原麻衣
画像イラストレーター:
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 吸血鬼化(クリックで表示) 本来は吸血鬼ではない人物や動物が、吸血鬼に変化するモンスター化の一種。 ノスフェラトゥ・B(クリックで表示) ノスフェラトゥ(Nosferatu)とは、吸血鬼の総称として使われるルーマニア語。BはBranの頭文字と思われる。 火あぶりの刑(クリックで表示) 火焙り(ひあぶり)は火刑(かけい)の別名。 【セリフ】 すべて串刺しにしてくれる、とう!(クリックで表示) ドラキュラ公とも、串刺し公とも呼ばれたワラキア公ヴラド3世より。 ぬっ、これがトマトジュースっ!(クリックで表示) 正義側の吸血鬼がトマトジュースしか飲んではいけないというルールはないだろうが、よく見られる描写。 Noroc!(クリックで表示) ルーマニア語で「乾杯」。出陣前にトマトジュースで一杯やっているのだろうか? 現実の城情報ルーマニア南部はトランシルヴァニア地方、ブラショヴ県南部の山中に位置する古城。歴史的・建築学的な遺跡である。 ブラン城は1211年、オスマン帝国の侵入を防ぐため、山の頂上に築かれた要塞を新しくすることが決まり、1388年に城が完成した。 ブランはトランシルヴァニアとワラキアの境に近く、また、両者を結ぶ街道が存在していたこともあり、ブラン城のある山頂にはその守りを担う木材製の要塞が1211~1225年の間にドイツ騎士団によって築かれていたとされている。 その後、1377年にハンガリー王ラヨシュ1世により当地に石造の要塞を新しく築くことが認められており、現在の城の基盤はこの頃にできあがったと考えられている。 かの「串刺し公」ヴラド・ツェペシュのゆかりの城としても著名であるが、実際には彼は訪問しただけで住んでいなかったとされているため、彼が根城としたポエナリ城を真のドラキュラ城とする意見もある。 かの「串刺し公」ヴラド・ツェペシュのゆかりの城としても著名であるが、 ブラン城がワラキア公に与えられていたのは、1407年~1419年までの短い期間で、さらに1427年にはブラン城の管理権はトランシルバニア公に与えられているため、 実際にはヴラド・ツェペシュがブラン城に在していたとは考えられておらず(彼の祖父のミルチャ1世は在住したと考えられている)、この頃のワラキア公の居城であったポエナリ城を真のドラキュラ城とする意見もある。 ただし、ヴラド・ツェペシュは紆余曲折な生涯を送っており、トランシルヴァニア公のもとに身を寄せていた時期もあったことから、住したとまではいかなくとも、一時的に滞在した可能性までは否定されないのも事実である。 続きをクリックで表示 1498年にハンガリー王ヴラディスラフ2世はブラン城をブラショヴ市に賃貸し、1513年には所有権自体がブラショヴ市に移動した。 時は下り、1918年にルーマニア王国(いわゆる大ルーマニア)が成立すると、1920年ブラショヴ市は王妃マリアにブラン城を寄進、その居城となった。 その後はマリアの娘であるイレアナ王女がその遺産として保有していたが、第二次大戦後、共産主義政権によって没収され博物館として再整備され、幾度かの修復を経つつも現在も博物館として公開されている。 2006年に所有権はイレアナ王女の相続権保有者であった子供達に条件付き(3年間の用途変更不可等)返還されたが、基本的な維持は現在もルーマニア政府が管轄である。 2016年現在販売中(実話)。ルーマニア政府に対し、約8000万ドル(約81億円)で売却交渉中だが、政府のみが売却対象ではない。 好きな軍艦が現存していない、推し刀が国宝(または皇室御物)で買えない、とお嘆きのあなたに。 所有者が高齢化したこともあり、2014年にルーマニア政府に対し、約8000万ドル(約81億円)で売却交渉中であると報じられており、現在も売却先を探しているようである。 なお、返還時の約束により買取の優先権がルーマニア政府にあることになっているため優先的に交渉が行われただけで、売却先は個人・団体を問わないようであるため、お金さえあれば購入可能なようである。 ちなみにCOVID-19の流行に伴い、2021年にはワクチン接種会場としても用いられたようである。
ドラキュラのモデル ヴラド3世(クリックで表示) ドラキュラのモデル ヴラド3世ルーマニアの南部にあるワラキア公国を統治していたヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は1456年にワラキア公として即位する。即位の儀は首都トゥルゴヴィシュテで執り行われた。 ヴラド3世はオスマン帝国の敵兵を串刺しにして一列に並べたといった苛烈な逸話を持ち、「Dracula(悪魔公の息子)」とルーマニア語であだ名され、英語読みで「ドラキュラ公」との異名が生まれた。 彼の代名詞でもある『串刺し』が実際に行われた地は現ルーマニアの都市、当時のワラキア公国の首都トゥルゴヴィシュテである。 また、ドラキュラ城のモデルとされるブラン城は、ヴラド3世の祖父ミルチャ老公が居城としていたものの、ヴラド3世自身は一切居城としていないものと考えられる。 さて、そんな風に語られるヴラド3世であるが、実際は東欧の雄ハンガリーと拡大を始めるオスマン帝国の間に挟まれた、中小領主の悲哀を体現している人物でもある。 父ヴラド2世はハンガリーとオスマンの狭間で、ハンガリー王から最前線を任される立場である一方、隣接するトランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュとも激しく対立し、数年の激しい対立の後敗死している。 ヴラド3世は父がフニャディ・ヤーノシュへの対抗のためにオスマンの助力を得ていたことから、その人質としてオスマン帝国に抑留されていたこともあり無事であったため、オスマンによってワラキアに送り込まれ、時には父の仇とも言えるフニャディ・ヤーノシュの元に身を寄せてまで力を蓄え最終的にワラキア公の地位を取り戻した。 (これはヴラド2世敗死後にフニャディ・ヤーノシュによってワラキア公となったヴラディスラフ2世がオスマンよりの姿勢を強めたことが大きい) ようやく祖地に戻りワラキア公に即位したヴラド3世であったが、実際はハンガリーからは対オスマンの最前線の捨て駒として扱われる一方、オスマンには貢納の支払いをすることでやっと身を守れる程度の存在でしかなかった。 それでも、内部の対立する有力貴族の討伐やトランシルヴァニアから攻め込んできたヴラディスラフ2世の息子ダン3世を敗死させるなど、周辺勢力との対立の中でも自身の権力基盤の構築を徐々に進めて行った。 オスマンとの関係はオスマンが貢納金の引き上げを求めたことがきっかけで破綻し、怒って攻め込んできたオスマンに対しては徹底した焦土作戦で抵抗し、首都であるトゥルゴヴィシュテの戦いにおいては、一転出撃し、オスマン軍の前衛であるブルガリア兵を蹴散らし、多数の捕虜を得ている。 その後、オスマンはヴラド3世の弟であるラドゥ美男公を擁立し、これまでの強権的統治への不満も爆発したことでワラキアを追い出されただけでなく、オスマンに協力した咎でハンガリーによって幽閉されてしまう。 (この頃のヴラド3世は弟との対立もあり、むしろ反オスマンの強硬派であったが、これがハンガリーにとっては都合が悪かったと考えられている) それでも幽閉から解放されると、再度ワラキアに返り咲いたが(この頃のワラキアはラドゥ3世、モルダヴィア公が支援するバサラブ3世ライオタ、トランシルヴァニア公が支援するバザラブ4世などにより混乱を極めていた)、攻め込んできたオスマン軍に破れ戦死したとも、戦いの混乱の最中に対立する貴族によって暗殺されたともされている。 さて、彼が『ドラキュラ』と呼ばれるに至る経緯であるが、そもそもドラキュラとは『Dracula』と書き、現地の言葉で『Dracul』の息子という意味となる。 この『Dracul』とは竜を指し、父ヴラド2世がハンガリー王ジギスムントによってドラゴン騎士団に叙任された事に由来し、ヴラド2世は竜公とも呼ばれ、その子であるヴラド3世は『Dracula』と呼ばれることとなった。 つまり、大元の『ドラキュラ』には、竜公の息子以上の意味は存在しなかったわけである。 一方、キリスト教の聖書などではサタンはドラゴンや蛇の姿で書かれることが一般的であったため、ヴラド2世の『Dracul』は西欧ではサタンとも解釈できてしまう余地が存在した(ヴラド2世もここから悪魔公と呼ばれることがある)。 そこに、その子で『Dracula』であるヴラド3世の串刺しの故事が生じたことで、ヴラド3世は悪魔の子と位置づけされ、吸血鬼ドラキュラへとイメージが広げられていったのである。 コメント |
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