足利学校 のバックアップの現在との差分(No.2)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ | 左側の画像について。 城娘全体像の抽出画像を編集者が主観で300×415pxに縮小し、「城名S.png」で添付する。
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
ゲーム上の性能・評価戦術指南所の中級で入手可能になる予定の城娘。
キャラクターボイスCV担当: CV担当:高森奈津美
画像イラストレーター: イラストレーター:riritto 入手画像サイズは、できれば1275×720でお願いします
改壱
その他
城娘の元ネタ情報【出張版】教えて!れきしクン! 第27陣にて公式解説あり。 【デザイン】 【特技・計略】 【セリフ】 松の木(クリックで表示) 敷地内にある字降松(かなふりまつ)のこと。 戦国期の庠主九華和尚の時代、この松の木に読めない・意味が分からない字を書き留めた紙を結んでおくと翌日にはふりがな・注釈がついた状態で結びつけられていたという。 昔の偉人が記した貴重なもの(クリックで表示) 足利学校が所蔵していた書物は国宝やら重要文化財やらすごいのがわらわらであるが、これはおそらく国宝のうちの尚書正義を指すのではないかと思われる。 尚書、いわゆる書経は孔子が編纂を行ったという説がある。 現実の城情報開学は飛鳥時代の大宝律令の付属施設として・平安時代の小野篁説、鎌倉時代初期に鑁阿寺を開基した足利義兼説、 そして文献上記録が出てくる、永享11年(1439年)第10代関東管領上杉憲実説である。 憲実は学校の整備を行い、学校領を安堵、初代校長に鎌倉円覚寺から僧を招き、現在国宝に認定されている漢籍本等も寄進している。 その子12代憲忠・甥の15代憲房も永正の乱という戦さの最中に国宝や重文認定されている本を寄進し、保護を行っている。 この後も関東管領、北条氏の保護を受け、北は奥州・南は琉球まで学生の数を増やしていった。 足利学校は創立時期こそ議論が続いておりはっきりしないものの、「坂東の学校」と呼ばれ中世東国における最高の教育機関であった。 特に上杉憲実の庇護下に入った15世紀以降繁栄し、その後の歴史の転変の中でも後北条氏、徳川氏、歴代の足利藩主と有力者からの庇護を受け続け歴史を重ねた。 その指導範囲は、儒学、易学、医学、兵学など多岐にわたり、戦国期には出身者が大名に仕えるということも珍しいことではなかったという。 しかし、江戸期半ばに入り朱子学が栄える一方、兵学などが衰えるに従い足利学校も地位を失い、明治に入る頃には学校としての体裁は完全に失われ、廃藩置県の翌年廃校となった。 #style(class=submenuheader){{{ 最初は儒学が中心だったが、学生が増えた原因は戦乱により易学・兵法・医術が求められたことによる。 戦国時代にこれらの学問を修めた出身者が各地の大名に仕えていった。 『甲陽軍鑑』に武田信玄が軍師希望者に「占いは足利学校で修めたか?」と聞き、違うと不採用にした、とある。 また津軽為信の軍師で、弘前城の立地にも関わった沼田面松斎も足利学校出身と伝わる。 天文年間(1532 ~1554年)には生徒3000人を数え事実上日本の最高学府となり、 宣教師フランシスコ・ザビエルも「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学」と記している。 天正18年(1590年)に、豊臣秀吉が小田原城攻めを行い北条氏を滅ぼすと、翌年秀吉の養子秀次は校長の閑室元佶と書籍を京都に移してしまった。 秀次切腹後、これを戻したのが徳川家康だった。家康は『吾妻鏡』の蒐集も行っており学術的に優れた功績を挙げている。 江戸時代に入ると代々の将軍の寄進や保護を受けるも、各地の藩で学問所や寺小屋が作られたり、易学・兵法が必要とされなくなると急速に衰えた。 5代将軍綱吉・8代将軍吉宗によって朱子学が奨励され、儒学中心の足利学校は時代遅れとされたのも大きい。 朱子学は儒学から出ているが、仁義礼智信の「五常」と父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の仲を大事にする「五倫」が教義の儒教と、 後の尊王攘夷に繋がる「君主の言う事は絶対」の「大義名分論」が教義の朱子学とはかけ離れた物といえる。 寛政5年(1793年)、衰退を嘆いた松川東山・蒲生君平が新たに規則を定めたり、現代も行われている孔子を祀る儀式「釈奠(せきてん)」を始め何とか持ち直した。 明治維新後、足利藩は藩校として存続されることを望み、藩校の求道館を併合・僧侶の庠主制度を改め、教頭・助教などを置き町民にも学べるようにした。 だが、明治5年(1872年)、廃藩置県で栃木県管理となると、廃止され教育の場としての足利学校は終わりを遂げた。 明治9年(1876年)、所蔵書の一部が古本屋に売られ、残りも県に払い下げられた。また小学校建築の為校舎も壊すという計画が挙がった。 旧足利藩士で画家の田崎草雲・相場朋厚・川上広樹らが保護運動を立ち上げ、校舎の保護と書籍の買戻しが行われた。 明治36年(1903年)、栃木県の公立図書館として足利学校遺蹟図書館が設立され、現在も古典等の管理を行っている。 平成2年(1990年)、明治時代に壊された建物、庭園が復元され、平成27年(2015年)には日本遺産に認定されている。 }}} これだけの長い歴史を持つ学校ということもあり蔵書には宋代の書物など極めて貴重なものも多く、廃校以降それらが散逸の危機にさらされると関係者が尽力しこれを守り通した。 そのおかげで、現在でも貴重な文書が当地に残され、現在は足利学校の敷地内にある1915年開設の足利学校遺蹟図書館が保管している。 その中には国宝4点77冊、重要文化財8点98冊が含まれ、特に国宝のうち1点は金沢文庫由来であることが知られている。 また、足利学校跡地も廃藩置県後敷地の東半分を小学校用地として転用されるなどにより多くの建物が失われ、消滅の危機にさらされたが、蔵書とあわせて保護活動が実り、残された孔子廟など西半分は地元足利町(現足利市)が維持した。 跡地ならびに残された建造物は大正10年(1921年)に国の史跡に指定されており、地元の尽力が報われる結果となった。 現在では足利市による史跡整備により、明治に失われた東半分の敷地でも建物や庭園の復元がなされ、繁栄していた往時の姿を取り戻している。
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