菖蒲城 のバックアップの現在との差分(No.5)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
菖蒲城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:石上静香
画像イラストレーター:
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 衣装など(クリックで表示) 髪飾りと衣装の前側には菖蒲の花が、袖には鯉のぼりがデザインされている。 【特技・計略】 【セリフ】 鍾馗(しょうき)(クリックで表示) 唐の玄宗皇帝がマラリアに罹ったとき、夢に現れ宮廷内で悪戯をする小鬼を退治したという道教系の神。 日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、関東では端午の節句で軒先など屋外に飾る武者人形の題材として好まれた。 現実の城情報埼玉県久喜市(旧・菖蒲町)にあった城。関東戦国史に残る大乱・享徳の乱の最中の享徳5年に築かれた。 埼玉県久喜市(旧・菖蒲町)にあった城。関東戦国史に残る大乱・享徳の乱の最中の享徳5年(康正2年/1456年)に築かれた。 城が5月5日の端午の節句(菖蒲の節句)に竣工したことからこの名がついたという。この時期に実装される理由しかない。 幕府軍の攻勢で鎌倉城を追われ古河城に移った古河公方足利成氏が、上杉方に対する防衛線として家臣の金田(佐々木)則綱に築かせたとされる。 つまり川越城の逆パターンであり、ほぼ同時期の城。実際、古河と川越を結ぶ最短距離線上にあるのがこの菖蒲城である。 成氏が古河に移動する際に陣を張った「少府」という場所を菖蒲に比定する説もあり、その場合もともとあった地名と菖蒲とをかけて命名されたのかもしれない。 続きをクリックで表示 金田氏は近江の佐々木氏(六角氏)の一族が関東に土着したものと言われるが、詳しい家系などは明らかではない。 風向きが変わったのは大永年間。北条氏綱が武蔵に本格的に進出を開始。このころ古河公方は両上杉家や小弓公方に対抗するため氏綱と同盟関係にあり、関東管領上杉憲寛に攻められた菖蒲城に、北条方の岩槻城から渋江三郎が救援に来ている。 風向きが変わったのは大永年間で、北条氏綱が武蔵に本格的に進出を開始した。 このころ、古河公方は両上杉家や小弓公方に対抗するため氏綱と同盟関係にあり、関東管領上杉憲寛に攻められた菖蒲城に、北条方の岩槻城から渋江三郎が救援に来ている。 しかし当時の城主佐々木定綱*2は北条の進出に危機感を抱く小弓公方足利義明に接近し国府台の戦いに参陣するが、小弓公方は惨敗。 しかし当時の城主佐々木定綱*3は、北条の進出に危機感を抱く小弓公方足利義明に接近し国府台の戦いに参陣するが、小弓公方は惨敗した。 これがきっかけとなって古河公方家中でも浮いた存在になったらしく、北条氏康に擁立された「村雨の人」こと足利義氏が古河公方になって以降は義氏を通じて完全に北条家の麾下となった。 これにより、独立した勢力というよりも忍城や古河城を中心とする北条領北部の城郭網に取り込まれた。 天正二年上杉謙信が関宿城を救援するため関東に大挙侵攻してきたときには周辺の騎西城?・岩槻城などとともに襲撃され放火されている。 これにより、独立した勢力というよりも忍城や古河城を中心とする北条領北部の城郭網に取り込まれた。 天正2年(1574年)、上杉謙信が関宿城を救援するため関東に大挙侵攻してきた時には、周辺の騎西城?・岩槻城などとともに襲撃され放火されている。 最終的に秀吉の北条攻めの時、忍城とともに開城・破却された。佐々木氏は大塚姓を名乗って農民となったという。 江戸時代になると菖蒲周辺は徳川家臣内藤正成に与えられ、正成は菖蒲城の近くの栢間に陣屋を構えた。この栢間陣屋の裏門が現在菖蒲城址に移築されている。 最終的に秀吉の北条攻めの時、忍城とともに開城・破却され、佐々木氏は大塚姓を名乗って農民となったという。 江戸時代になると菖蒲周辺は徳川家臣内藤正成に与えられ、正成は菖蒲城の近くの栢間に陣屋を構え、この栢間陣屋の裏門が現在菖蒲城址に移築されている。 城跡は現在菖蒲園となっており、5月から6月ごろには花が見ごろとなる。 城の遺構は全くないが、隣接する県道川越栗橋線の拡幅工事の際に発掘調査が実施され、堀や土塁が出土した。また敷地内からは平安時代のものとみられる住居跡も見つかった。 城の遺構は全くないが、隣接する県道川越栗橋線の拡幅工事の際に発掘調査が実施されて堀や土塁が出土し、また敷地内からは平安時代のものとみられる住居跡も見つかった。 江戸時代にはわずかに城址が残っていたらしいが、現在では農地と菖蒲園として整備され、城の構造はよくわかっていない。 現在でも周囲が基本的につるぺた平坦で、古来より利根川の支流が幾筋も通っており、その水を堀に引き入れていたと考えられている。 ちなみに、一行目では築城年を享徳5年としているが、前年の7月に改元が行われているため1456年は本来なら康正2年である。 しかし古河公方は改元せずに享徳を1478年=享徳27年まで使い続けていたため、この項ではこう表現した。 これは室町幕府に対抗して使い続けたとする説と、幕府と対立していたために正式な改元の通知書が届かなかったのでやむなく使い続けたとする説がある。
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