津山城 のバックアップの現在との差分(No.12)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
津山城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:篠宮あすか
画像イラストレーター:西條ハルキ
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 桜の模様(クリックで表示) 御嬢の服や城娘姿の髪飾り・袖下に桜が描かれているが、廃城後鶴山公園として整備され現在1000本以上の桜があり、 改壱の城娘姿の服の袖(クリックで表示) 袖の部分に新しく白と黒のひらひらとした飾りが付いた。 津山城は、別名が鶴山城、初代城主の森家の家紋は鶴丸紋など、鶴とのゆかりが多々あるため、おそらくはその鶴がモチーフではないかと思われる。 【特技・計略】 朝顔の半鐘(クリックで表示) 城主森忠政は津山城築城時細川忠興の小倉城を参考にする為、家臣や大工を小倉城に派遣し海からこっそり図面を描いていたところ細川氏の家臣に見つかってしまった。 この形が朝顔に似ていたことから「朝顔の半鐘」と呼ばれるようになった。現在、大坂南蛮文化館の所蔵となっている。 この形が朝顔に似ていたことから「朝顔の半鐘」と呼ばれるようになった。現在、大阪南蛮文化館の所蔵となっている。 ちなみに忠政と忠興は、以前から一緒に家康の警護に当たる・茶会を行っていた等親交があったため大事に至らなかったと思われる。 柵原鉱山(クリックで表示) 岡山県久米郡美咲町(旧柵原町)に存在した、黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を産出した鉱山。津山城築城時に石材を集める際に褐鉄鉱の露頭を見つけたことが発見のきっかけと言われている。 明治15年(1882年)に採掘が始まり、1950年代から60年代にかけて全盛期を迎えたが70年代半ばには硫酸の原料としての硫化鉄鉱の利用がほぼ途絶え、経営の縮小と合理化によって生き残りを図ったが昭和60年(1985年)以降の円高により輸入鉱石の価格が下落し競争力が著しく低下、平成3年(1991年)3月に閉山した。 跡地にはトロッコの整備空間を転用した地下低酸素トレーニング施設「ハイポキマイン・走路・やなはら」が設けられている他、毎月第一日曜日に柵原ふれあい鉱山公園(旧片上鉄道吉ヶ原駅)を出発地点とした坑道見学会が開催されている。 【セリフ】 ウインク(クリックで表示) 築城者の森忠政は眼病で片眼を失っていたためと思われる。 現実の城情報嘉吉年間(1441~1444年)に山名忠政が築いた鶴山城を前身とし、津山藩初代藩主・森忠政によって築かれた。 忠政は慶長8年(1603年)に築城を開始し、13年の歳月をかけて77棟もの櫓を備える近世城郭が完成した。 天守は小倉城を参考にしたとされ、小倉城と同様に最上部以外には破風が存在しないきわめて質実な層塔型天守となった。 信濃国川中島より移ってきた忠政は、慶長8年(1603年)に築城を開始し、13年の歳月をかけて77棟もの櫓を備える近世城郭が完成した。 天守は小倉城を参考にしたとされ、小倉城と同様に最上部以外には破風が存在しないきわめて質実な層塔型天守となった。 小倉城を検分した忠政の家臣を小倉城主細川忠興が快く迎え入れたという逸話が残る。 また、天守最上階には細川忠興から贈られた九曜紋入りの鐘が吊るされており、細川氏との繋がりを顕著に示す。 城郭構造に関しては、津山市が公式に解説付き再現VTRを公開しているため、ここに紹介しておく。(フルver. ショートVer.) 続きをクリックで表示 森家が断絶した後は一時広島藩の預かりとなり、その後越前松平家が入り明治維新まで城主となった。 総石垣のつくりで、三段、あるいは四段重ねに曲輪を築いた一二三(ひふみ)段と呼ばれる構えが特徴とされる。 森家が断絶した後は一時広島藩の預かりとなり、その後越前松平家より松平宣富が10万石で入り、そのまま明治維新まで松平家が城主となった。 明治6年に廃城令により公売に出され、7年から8年にかけて一切の建物が解体され、石垣のみが残った。 その後明治32年に城跡を公園にするという条件で当時の津山町に払い下げられ、それにあたって城跡に数多くの桜が植樹され現在の姿となった。 津山城は吉井川と宮川の合流地点にある小高い山(鶴山)を利用して建てられている。 城の南、西、北側には総構えが形成されており、東側は鶴山から宮川に落ち込む急な断崖を防御線として利用している。 城の内郭は総石垣のつくりで、三段、あるいは四段重ねに曲輪を築いた一二三(ひふみ)段と呼ばれる構えが特徴とされる。 大手、搦手ともに入り口から天守に至るまでに多数の桝形虎口が形成されており、防御を強く意識した縄張りとなっている。 また、本丸は狭い空間を有効に活用するため、多くの櫓を御殿に取り込む珍しい作りをしていた。
天守について(クリックで表示) 津山城は4重5階の層塔型天守を持っていた。 一応各階にはそれぞれ屋根が付いていたが、その中でも4階と5階の間の屋根は突き出しが小さく、造りも板葺きであった。 一説によればこれは、森忠政が津山に5重の天守を建てたと幕府が耳にし、その追及を逃れるために4階の屋根を破棄してごまかしたためと言われる。 備中櫓(クリックで表示) 天守の南に位置する櫓で、森忠政の娘婿にあたる池田備中守長幸が津山城を訪れるのを機に完成したと言われる。 櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と変わらないが、本丸御殿指図書には隣接する長局、到来櫓と共に描かれており、御殿の一部として認識されていた事が示されている。 内部には茶室や御座之間も備えられ、建具に唐紙が用いられるなど御殿建築となっており、その位置から城主や近い間柄の女性の生活空間の一部となっていたと考えられている。 このような構造を持つ櫓は全国的にも珍しく、津山城の中でも特徴的なものとなっている。 そのため復興整備の対象となり、2005年に築城400周年記念事業として木造で復元された。 コメント |
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