新府城 のバックアップの現在との差分(No.23)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
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新府城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
通常持たせるのは攻撃が高めか、射程強化のある装備にした方が良いだろう。 射程強化は速度上昇と相性もいいので、基本的には射程重視でも良いか。
キャラクターボイスCV担当:中恵光城
画像イラストレーター:典樹
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 【セリフ】 甲斐国の全てを掌握する(クリックで表示) 「新府」という名が表すように、新府城は甲斐府中だった躑躅ヶ崎館に代わる新しい府中として築かれ、まさに「甲斐国を受け継ぐ者」といえる。 もっとみんなに、信を得られるようにならねば…(クリックで表示) 蔀(しとみ)(クリックで表示) 信濃、西上野、駿河へと拡大した領国の支配強化を見据えて行われた新府城への府中機能の移転であったが、家中総意によるものではなかったようだ。 新府城周辺にあった家臣団の屋敷は勝頼の側近のものがほとんどで、新府築城に反対していた武田逍遙軒信綱や一条信龍をはじめとする一族や重臣らの屋敷はほぼ見られず、新府築城の強行は勝頼と一族・重臣の対立を決定的なものとしたと考えられる。 蔀とは視線を遮るものを指す言葉である。 新府城は「蔀の構(しとみのかまえ)」という、南から北への勾配と、互い違いに設けられた植え込みや土塁によって、外からは本丸内部が見渡せないような天然の壁ともいうべき構造を備えていた。 蔀(しとみ)(クリックで表示) 四つ割菱(クリックで表示) 蔀とは視線を遮るものを指す言葉である。 新府城は「蔀の構(しとみのかまえ)」という、南から北への勾配と、互い違いに設けられた植え込みや土塁によって、外からは本丸内部が見渡せないような天然の壁ともいうべき構造を備えていた。 武田氏の家紋。菱形同士の間隔が狭くとられているものを「武田菱」という。 出構(でがまえ)(クリックで表示) 北側の外堀に設けられた2か所の鉄砲陣地。 七里岩(しちりいわ)を越えることは誰にもできぬ(クリックで表示) 釜無川の浸食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖を指して七里岩と呼ばれる。 ちなみに新府城がある韮崎市の「韮崎」という地名は七里岩台地の形が「韮」の葉に似ていることから名付けられたという説がある。 もっとみんなに、信を得られるようにならねば…(クリックで表示) 信濃、西上野、駿河へと拡大した領国の支配強化を見据えて行われた新府城への府中機能の移転であったが、家中総意によるものではなかったようだ。 新府城周辺にあった家臣団の屋敷は勝頼の側近のものがほとんどで、新府築城に反対していた武田逍遙軒信綱や一条信龍をはじめとする一族や重臣らの屋敷はほぼ見られず、新府築城の強行は勝頼と一族・重臣の対立を決定的なものとしたと考えられる。 現実の城情報天正3年(1575年)の長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、領国支配を堅固なものとするため、新府城の築城を決定した。 続きをクリックで表示 天正10年(1582年)、信濃での木曾義昌の謀反に端を発した甲州征伐が始まると、天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れず家中の信望が失墜していた武田氏は多くの投降者を出すこととなり、織田軍は瞬く間に甲斐に押し寄せた。 天正10年(1582年)、信濃での木曾義昌の謀反に端を発した甲州征伐が始まると、天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れず家中の信望が失墜していた武田氏は多くの投降者を出すこととなり、織田軍は瞬く間に甲斐に押し寄せた。 これに対して勝頼は築城途中の新府城を焼き払い、在城わずか68日で放棄することとなる。 甲斐武田氏の築城技術の粋を集めた新府城だが、ついに実戦の機会を得られず、その真価を発揮することはなかった。 新府城から退去する勝頼は、真田昌幸から岩櫃城へ、小山田信茂から岩殿山城への撤退の進言を受けて信茂の進言を受け入れたが、道中で信茂の裏切りに遭い天目山で自害することとなる。 新府城は未完成のまま甲斐武田氏は滅亡したが、後の天正壬午の乱にて徳川家康に再利用され、後北条氏と対峙することとなる。 時は進み、豊臣系大名時代に甲府城が築城され、関ヶ原合戦を経た後も甲府城が甲斐の政治的中心地となったため、新府城は廃城となった。 時は進み、豊臣系大名時代に甲府城が築城され、関ヶ原合戦を経た後も甲府城が甲斐の政治的中心地となったため、新府城は廃城となった。 昭和48年(1973年)には「新府城跡」として国の史跡に指定された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。
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