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チットールガル城 のバックアップ(No.8)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | 茶器 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
ゲーム上の性能・評価
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【デザイン】
【特技・計略】
ア・バオ・ア・クゥー(クリックで表示)
ジャイナ教の建造物『勝利の塔』に時の始まりより巣食うと伝わる怪物
「ジャイナ」の語源はサンスクリット語で“勝利、征服者”を意味する。
チットールガル城が言っているヴィジェイ・スタンバが勝利の塔と呼ばれ
15世紀にマルワール王国との戦いに勝利した記念に建てられたもの。
現在でも登ることができ、物語の通り螺旋階段が出迎えてくれる。
なお、初代ガンダムの宇宙要塞ア・バオア・クーはこの怪物の名を少し訛らせて名付けられた
【セリフ】
ラージプートの御三家と称されるラージャスターンのアンベール王家、マールワール王家、メワール王家のうち、メワール王家が居城とした城。
ラージャスターンの平原に突出した標高約150メートルの岩山全体を利用した巨大な城砦で、その周囲は約13キロメートル、総面積は2.8平方キロメートルにもおよぶ。
メワール王家はその起源を7世紀にまで遡るラージプートのなかでも最も古い家系に属し、王都チットールガルをめぐる攻防は北インドの歴史と深く関わるものであり、ラージプートの伝統が形成されていくものでもあったため、チットールガル城はラージプートの武勇の象徴と評される。
それだけにチットールガル城における攻防戦は激しいものであり、1303年のハルジー朝スルターン、アラー・ウッディーン・ハルジーによる包囲の際には7ヶ月間にわたって抵抗したが、その末に城兵は女子を含め玉砕した。
この戦いは動機はマリク・ムハンマド・ジャーイスィーが1540年に書いた叙事詩『パドマーヴァット』で、アラー・ウッディーン・ハルジーがメワール王ラタン・スィングの王妃パドミニーに恋をしたためとされているが、これはラージプートのヒロイズムと女性の貞節を強調した「パドミニー伝説」からくるものであり、あくまでも伝承とされる。
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メワール王国はヴィクラマーディティヤ・スィングの時代にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーのよる侵攻に遭い、チットールガル城は包囲された。
この時ヴィクラマーディティヤ・スィングはラージプートとしての誇りからムガル皇帝フマーユーンに救援を求めることを躊躇い、母后のラーニー・カルナーヴァティーが手紙で救援を求めたものの、イスラームであるフマーユーンは異教徒のメワール王国を助けるわけにはいかないと断った、という伝承がある。
この伝承は史実ではないとされるが、事実としてフマーユーンはチットールガル城の陥落後にバハードゥル・シャーと戦い、これを破ってチットールガルから追放している。
ムガル帝国ではフマーユーンの死後アクバルがその後を継ぎ、ラージプートとの同盟を進めた。アンベールのマーン・スィングは1562年にいち早くアクバルに臣従したが、メワール王ウダイ・スィング2世はこれを拒否した。
アクバルは1567年10月にチットールガル城を包囲し、翌年2月末に陥落させた。ウダイ・スィング2世は山間のウダイプルに逃れてゲリラ戦によって抵抗したが、1572年に死去する。
その一方で城を守って玉砕したメワール王国の武将ジャイマルとパッターにアクバルは感銘を受け、アーグラ城に二人の石像を建てている。
ラージプートの武勇の象徴とされるチットールガル城の陥落は各地のラージプートの王に大きな影響を与え、相次いでアクバルに服属していった。
そのような状況でウダイ・スィング2世の子プラタープ・スィングは王都をウダイプルに移し抵抗を続けたが、1576年にハルディー・ガーティーの戦いでアクバルに敗れると、1578年までにメワール王国を除いてラージャスターンはアクバルによって征服された。
プラタープ・スィングは同じラージプートの王であるアンベール王マーン・スィングの説得を受けたが拒絶し、最後までムガル帝国に抵抗し続けた。
アクバルの死後はジャハーンギールがムガル皇帝となり、なかなか進展しなかったメワール王国征討に本腰を入れて子のフッラム(後のシャー・ジャハーン)を派遣し、フッラムはメワール王国の補給線を断った上でメワール王アマル・スィングを追い込み、1616年にようやく降伏させた。
こうしてメワール王国の独立は終わったが、ジャハーンギールはメワール王の武勇を讃えてチットールガル城の修復をしないという条件で領土を安堵し、ムガル宮廷への王の出仕やメワール王の王女のムガル皇室への輿入れなどを免除した。
しかし1652年に即位したラージ・スィングはムガル帝国との条約を破ってチットールガル城を修復し、ムガル帝国軍の侵攻を招いた。これはラージ・スィングの謝罪によって許されたが、その後ムガル帝国で帝位継承者争いが起こった際には再びチットールガル城を修復し、ムガル帝国領を攻撃している。
そんななか、新たにムガル皇帝となったアウラングゼーブはヒンドゥー教寺院の破壊やジズヤの復活など抑圧的な政策を断行し、これに反発したラージ・スィングはマールワール王国のドゥルガー・ダースなどとともに1679年に反乱を起こした。
アウラングゼーブは直ちにメワール王国に侵攻し、王都ウダイプルやチットールガル城を占領した。ラージ・スィングはゲリラ戦で抵抗したものの1680年に死去し、その後を継いだジャイ・スィングはアウラングゼーブに降伏し、以後チットールガル城は修復されることなく廃墟となった。
2013年、チットールガル城は「ラージャスターンの丘陵城塞群」の構成資産としてアンベール城などとともに世界遺産に登録された。
| 所在地 | インド、ラージャスターン州ウダイプル県チットールガル |
| 現存状態 | 城壁、塔、宮殿など |
| 城郭構造 | 山城 |
Published by (C)DMMゲームズ
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