佐竹城 のバックアップの現在との差分(No.6)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:鬼頭明里
画像イラストレーター: イラストレーター:かまぼこRED
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 【セリフ】 寝る時は薄い布しか敷かない(クリックで表示) 佐竹義重は、寝る時に敷布団を用いず、薄い布だけ敷いて寝ていたとされている。 関ヶ原の後、佐竹氏が出羽に移された際には、息子から寒さ対策の寝巻と布団を贈られたものの、使ってはみたが気に入らなかったので以後敷布団は用いなかったらしい。 (掛け布団の前身(夜着)が出始めたのが16世紀後半、綿栽培の発展で敷布団が誕生したのが江戸時代中期とされている) 関東七名城が八人(クリックで表示) 江戸中期に書かれた管窺武鑑が由来とされている。作者の父が上杉家臣(謙信・景勝の二代に仕えた)だったため、作中で七名城とされているものは全て「上杉から見て攻めにくい城」である。 川越城・忍城・前橋城(厩橋城)・金山城(新田金山城)・唐沢山城・宇都宮城・太田城(佐竹城)が原典由来になるが、多気城を七番目に入れる場合もある模様。 お残しは、だめですからねぇ?(クリックで表示) イベント2の台詞の1つ。 TVアニメ『忍たま乱太郎』、その原作である『落第忍者乱太郎』に登場する食堂のおばちゃんの台詞「お残しは許しまへんでー!!」が元ネタかと思われる。 別に元ネタがあるような台詞ではなさそうだが、「お残し」というフレーズを聞くと真っ先にこのおばちゃんの台詞を思い浮かべてしまうからだ。 現実の城情報常陸太田城?(未実装)の別名バージョン。太田城と呼ばれる城は日本各地にあり、武家の名門である佐竹氏の名前で実装したものと思われる。 常陸国の名門佐竹氏の居城で、太田城とも。佐竹氏は源頼義の三男新羅三郎義光の流れをくみ、その孫昌義から佐竹氏を名乗った。 佐竹城は天仁2年(1109年)に藤原通延によって築かれたとされ、馬坂城を居城としていた佐竹氏第二代隆義は藤原通延の孫・通盛を小野崎城へと追った。通盛は小野崎氏を名乗り、石神城の石神小野崎氏・額田城の額田小野崎氏の祖となった。 佐竹城を馬坂城に代わる居城とした隆義がこの城に入った際、上空を鶴が舞ったことから「舞鶴城」と呼ばれるようになったという。 以後約470年間にわたる佐竹氏代々の居城となり、佐竹氏中興の祖である第十四代義舜が戦国大名としての基盤を整えた。 この間に佐竹氏は治承・寿永の乱での源頼朝との戦い、南北朝動乱での南朝方との戦い、また佐竹氏の庶流で山入城を本拠とする山入家との山入の乱など幾度も戦乱を経験し、佐竹城を度々奪われた。特に山入の乱は約100年間に渡り、延徳2年(1490年)には山入家の佐竹義藤・氏義父子によって佐竹城から追放された。 続きをクリックで表示 しかし佐竹氏中興の祖と呼ばれる第十五代義舜は永正元年(1504年)、岩城氏の支援を得て佐竹城を奪還、山入家を討って佐竹氏を統一した。 「鬼義重」の異名で知られる第十八代義重は佐竹城を拠点に北関東に覇を唱え、佐竹氏の全盛期を築いた。 第十九代義宣の頃に居城は水戸城に移り、慶長7年(1602年)に出羽国へと転封となった後、佐竹城は廃城となった。 佐竹城は里川と源氏川に挟まれた南北に長い鯨ヶ丘台地の中央部に築かれ、台地中央部に5つの曲輪が置かれた。主郭部の南側には城下町が広がり、北側は阿武隈山系の山地につながる。 曲輪は土塁と堀で囲まれ、中央部の本丸は東と西に分かれ、南に二の丸、北に三の丸、そのさらに北に北曲輪が配置された。 本丸の西側斜面には連続竪堀と見られる凹凸がある。東側には堀と土塁を挟んで細長い馬出曲輪があったと考えられ、そのさらに東側は高さ約20メートルの崖となっている。 北曲輪の西側は勾配が緩いため防御上の弱点となっており、丘陵先端部に駒柵と呼ばれる出丸が置かれ、現在は帰願寺がある。 主郭部の南の平坦部には城下町が長さ約1500メートル、幅300~500メートルで続き、常陸太田市の旧市街地にあたる。城下町の東西は高さ約20メートルの崖となり、城下に入るには数本の急勾配の道を通る必要があることから防御性は高く、さらに要所には出丸が置かれ現在の浄光寺、法然寺、梅照院となっている。 東・西・南には湿地帯が広がり、城下町も含め高い台地上にある佐竹城は天然の要害といえるが、北のみはなだらかな台地に続くことから弱点となっていた。 そのため北東の真淵坂方面では真淵館と馬場城、さらに東の今宮館や小野崎城が出城となっていたと考えられる。西には久米城、馬坂城、さらに西の前小屋城、宇留野城、部垂城、里川を挟んでの東には田渡城、東南の石神城、南の額田城、北の山入城などの支城群が配置され、本城である佐竹城を守っていた。
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