箕輪城 のバックアップの現在との差分(No.4)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
箕輪城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:浅川悠
画像イラストレーター:
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 上州の黄斑(クリックで表示) 箕輪城主・長野業正の渾名。上州とは上野国、黄斑とは虎のこと。 無形の位(クリックで表示) 上泉信綱を祖とする剣術・新陰流の構え。相手の仕懸に対して転じて勝つことを根義とし、いかなる攻撃にも変幻自在に対応可能なように剣を持った手をだらりと下げ敵の前に立ちつくす。 【セリフ】 「君は可憐な梅花そのものさ」「主君は在原業平の生まれ変わりなのでは?」(クリックで表示) 在原業平は平安時代の貴族・歌人であり、六歌仙・三十六歌仙の一人。恋の歌の名人でもあり、自身も日本を代表する女たらしとして知られる。 箕輪城主、長野業正(上野長野氏)はこの在原業平の子孫を称していた。 「梅の花」は業平がモデルといわれる『伊勢物語』に登場し、同じ場面を業平が詠んだ歌(古今和歌集採録)にも間接的に登場する。 業平の和歌は藤原俊成によって絶賛され、以後その歌を前提にした歌(本歌取り)が多数生まれることになる。 現実の城情報武田信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言わしめた、「上州の黄班」長野業正の居城。「剣聖」上泉信綱との縁も深く、登城口には両者の名が書かれた旗が立てられている。 長野氏の最盛期を築いた長野業正は娘を箕輪衆をはじめとする上野各地の国衆に嫁がせ、箕輪城を中心に鷹留城、国峰城、和田城、松井田城、安中城、倉賀野城、岩櫃城、厩橋城などによる、大小合わせて302とも数えられる支城網が構築された。 長野氏の最盛期を築いた長野業正は娘を箕輪衆をはじめとする上野各地の国衆に嫁がせ、箕輪城を中心に鷹留城、国峰城、和田城、松井田城、安中城、倉賀野城、岩櫃城、厩橋城、大胡城、上泉城などによる、大小合わせて302とも数えられる支城網が構築された。 続きをクリックで表示 業正は、のちに新陰流を創始し「剣聖」と称される上泉信綱を筆頭とする「長野十六槍」を従え、弘治3年(1557年)から始まる武田信玄の西上野侵攻をことごとく撃退したが、永禄4年(1561年)の業正死後の長野氏は求心力を失っていく。 業正は、のちに「剣聖」と称される上泉信綱を筆頭とする「長野十六槍」を従え、弘治3年(1557年)から始まる武田信玄の西上野侵攻をことごとく撃退したが、永禄4年(1561年)の業正死後の長野氏は求心力を失っていく。 早くも同年末には、内紛によって国峰城を追われていた小幡憲重の先導で信玄による西上野侵攻が本格化し、国峰城が憲重に奪還され、和田業繁や安中重繁が武田氏に降伏して和田城・安中城・松井田城が明け渡され、倉賀野城の倉賀野尚行も城を退去して越後の上杉謙信の下へ逃れるなど、有力国衆の離反が相次ぎ各地の支城が次々と武田方の手に落ちていった。 最重要の支城だった鷹留城も落城し城主の長野業通は討死、あるいは越後へ逃れたといい、箕輪城は孤立することとなった。 天険の要害である箕輪城はここからしばらく持ちこたえたものの武田勢の猛攻によって追い込まれ、城主の長野業盛は父・業正の遺言を守って降伏せず最後まで抵抗し、永禄9年(1566年)9月に箕輪城は落城、業盛は自刃して箕輪長野氏は滅亡した。 余談だが、上泉信綱は箕輪城落城後に諸国を流浪したとされ、柳生城主の柳生宗厳(石舟斎)を弟子として新陰流を伝えたという(ただし箕輪城が落城した年と諸国流浪の年には矛盾もある)。 余談だが、信綱は箕輪城落城後に諸国を流浪したとされ、自ら創始した新陰流を柳生城主の柳生宗厳(石舟斎)を弟子として伝えたという(ただし箕輪城が落城した年と諸国流浪の年には矛盾もある)。 箕輪長野氏滅亡後は、かつて業正を頼って箕輪城下に居住したこともある真田幸綱(幸隆)や、武田四天王の一人・内藤昌秀(昌豊)など、武田氏の重臣が箕輪城代となるなど武田氏による西上野支配の最重要拠点となり、武田氏が滅亡すると織田信長の重臣滝川一益が厩橋城に移るまで入っていた。 しかし慶長3年(1598年)、直政は新たな居城として高崎城を築き箕輪城は廃城となった。 しかし慶長3年(1598年)、直政は新たな居城としてかつて箕輪城の支城だった和田城の跡地に高崎城を築き箕輪城は廃城となった。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造箕輪城は榛名山から伸びる独立丘陵上の中心に築かれ、西の榛名白川と南の榛名沼が天然の堀となった。 箕輪城は大きく三つの時期に分けられ、最初期の箕輪城は長野氏・武田氏の時代で、その城域は現在の本丸・二の丸・三の丸の範囲だったと考えられており、本丸の南側と北側に堀が設けられた。 最後の井伊氏の時代も縄張が変わり門や石垣が整備され、現在の箕輪城の姿となった。この時代の門や石垣は、関ヶ原の戦い以前の関東の城郭では石垣山城を除き最大級のものだった。 コメント |
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