唐沢山城 のバックアップの現在との差分(No.3)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
唐沢山城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:内村史子
画像イラストレーター:かまぼこRED
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 肩の部分の岩(クリックで表示) 向かって右側にあるのは鏡岩。上杉謙信が唐沢山城を攻めた際、この岩に西日が反射して攻めるのが困難であったと伝わる。 向かって左側にあるのは天狗岩(別名「大険山」)。岩を締め付けるように松が生えているのが特徴的。この岩の頂上はとても見晴らしがよく、周囲を見張るために使われた。 【特技・計略】 大炊の井(おおいのい)(クリックで表示) 縄張りにて現存する直径9m、深さ8mの大型井戸。 今日まで枯れたことがなく、空になるまで水を汲んでも翌日には復活するほどの豊かな水量といわれている。 避来矢山(ひらいしやま)(クリックで表示) 虎口に隣接する、縄張りの中でも一段と高くなっている山容。その高さを生かして、天狗岩と共に周囲の抑えを担っていたと考えられる。 名前の由来である避来矢は下記の蜈蚣切と共に送られた宝物で、矢避けの加護があるとされる鎧。 焼けてしまい一部しか残っていないが、唐沢山神社内に保管されている。 【セリフ】 蜈蚣切(むかできり)(クリックで表示) 藤原秀郷が所用したと伝えられる太刀 伊勢神宮に現存する伝・藤原秀郷佩用の太刀うちのひとふり もうひとふりは毛抜形太刀 蜈蚣(大百足)を退治した礼に龍神から送られた宝物の一つであると伝えられるが 鑑定では14世紀に作られているということで藤原秀郷の時代(10世紀)とは合わない 関東一の山城(クリックで表示) 唐沢山城は上杉謙信が関東政略に力を入れていた時期はちょうど上杉と北条の勢力の境目に位置したこともあり、度々戦の舞台となったが攻めるのが上杉にしろ北条にしろ手を焼くばかりであったという。 それ故関東一の山城という評判が立ったと伝えられている。 これは150m近い比高から得られる防衛しやすさに加え、南方には平野が広がるため見通しがよかったことも優位に働いたと考えられている。 特に見通しは現在でも好天であれば南の曲輪から都心部の高層ビルやスカイツリーなどが見通せるほどの良好さで、江戸の火事に気づいて駆けつけたが故に廃城させられたという説まであるほどである。 足腰が鍛えられるぞ!(クリックで表示) 唐沢山の近辺はハイキングコースが整備されており、麓から登る人も見受けられる。 また、城跡に着いてからも上に行くには急な階段を上る必要があり、結構足腰に来る。 境内には「足腰にやさしい」足尾山神社があるのだが、やさしさについて考えさせられる。 現実の城情報唐沢山城(からさわやまじょう)は、日本の城。所在地は栃木県佐野市富士町、栃本町。 別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。 「関東一の山城」と称される。城跡は国の史跡に指定されている。 関東七名城の一つ。佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。 戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。 戦国時代、上杉氏と北条氏という大勢力の挟まれながらも生き抜いた佐野氏の居城。関東七名城の一つで、「関東一の山城」と称される巨大山城。別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。 唐沢山城を築いたのは10世紀の藤原秀郷との伝承があるが根拠は無く、文献上では『松蔭私語』の文明3年(1471年)の記述で「天命之上之山、佐野城」が唐沢山城を指しているというものであり、15世紀後半には築かれていたとされる。 この頃の城主は佐野荘一帯を支配していた秀郷流の佐野氏であり、戦国時代には周辺地域に勢力を拡大したが、永禄4年(1561年)以降は関東へ侵攻する上杉謙信によって度々攻撃されることとなった。 唐沢山城の守りは固く、城主の佐野昌綱の巧みな指揮もあって上杉勢を撃退したが、永禄7年(1564年)に昌綱は降伏して城は上杉氏の管理下に置かれた。城には色部氏や五十公野氏などの揚北衆が在番し、唐沢山城は沼田城や厩橋城とともに謙信の関東経営の重要拠点となった。 続きをクリックで表示 関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。 現在は栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座する。 遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、井戸などが残っている。 永禄10年(1567年)には北条氏が攻勢をかけ、同年の謙信書状には唐沢山城が本丸だけの状況になってしまったと記されており、その後上杉氏は北条氏に城を明け渡したとされる。 唐沢山城は元々の城主だった昌綱に預けられたが、永禄12年(1569年)に越相同盟が結ばれると再び上杉氏が支配し、色部勝長が在番した。 やがて上杉氏が唐沢山城から退くと再び佐野氏が城主に復帰したが、昌綱の子宗綱が天正13年(1585年)に館林城主の長尾顕長と戦って討死した。その後北条氏康の子氏忠が宗綱の養子となって佐野氏を継いだ。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で氏忠は降伏し、唐沢山城は宗綱の叔父で秀吉に仕えていた天徳寺宝衍(佐野房綱)が城主となり、その後富田信吉が養子となって佐野氏の家督を継ぎ城主となった。 慶長7年(1602年)、信吉は唐沢山城南東の平地に佐野城を築いて居城を移したため、唐沢山城は廃城となった。 唐沢山城は佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として尾根筋・斜面に曲輪を配し、その間を堀で巧みに区切り山全体を城塞化した連郭式山城で、佐野氏、上杉氏、北条氏と支配者が度々変わってその都度改修されて大規模化していった。 竪堀に関しては本丸から南西方向への尾根筋に、三ヶ所にわたって竪堀・堀切・土塁で攻勢された虎口があり、これは北条氏系の城郭によく見られることから、北条氏時代に造られたものだと思われる。また北城の北側にある竪堀は長くて深く、北条氏系とは異なる特徴を持っている。そして北城東側斜面の連続竪堀は、唐沢山城に在番していた色部勝長の平林城にも見られ、これらの竪堀は勝長が造ったものだと考えられる。 唐沢山城は西側山麓の家臣団屋敷があった根小屋地区が良好に残っているのも特徴で、これらは佐野氏の養子となった北条氏忠の時代に大改修が行われたとされる。山城の多くは山麓部は近世以降の開発で改変されてしまうが、唐沢山は江戸時代に彦根藩の御留山となったため、手付かずのまま残されたのだと思われる。 そして唐沢山城最大の特徴は、関東地方の古城には珍しく高石垣が築かれていることである。高石垣は本丸や二の丸、南城に見られ、特に本丸の石垣は高さ8メートル以上にもなり、織豊系城郭に特徴的な算木積みとなっていることから、豊臣氏と関係の深かった天正18年(1590年)以降の天徳寺宝衍と佐野信吉の時代に築かれたものとされる。 現在の唐沢山城は栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座する。 平成26年(2014年)には城跡が「唐沢山城跡」として国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。
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