大津城 のバックアップの現在との差分(No.2)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
大津城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:西明日香
画像イラストレーター:beko
改壱
城娘の元ネタ情報【出張版】教えて!れきしクン! 第06陣にて公式解説あり。 【デザイン】 腰のお弁当袋(クリックで表示) ペンギン…ではなく、大津市の市の鳥にも指定されているユリカモメだと思われる。 大津城に面する琵琶湖には、冬になると多くのユリカモメが飛来する。 ただし、ユリカモメは日本では冬鳥であり、彼女のお弁当袋のような夏羽の黒いユリカモメは国内ではわずかな期間しか見られない。 【特技・計略】 大津宰相(クリックで表示) 大津城6万石の大名だった京極高次は文禄5年(1596年)に羽柴の苗字公称が許され、羽柴大津宰相と呼ばれた。 関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城の戦いで降伏し開城した翌日に城に近い園城寺(三井寺)で剃髪し、その後高野山に入った。 その後関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康に高く評価されたため山を降り、若狭一国・8万5000石を与えられ小浜藩初代藩主となった。 【セリフ】 「活躍して七光りじゃないって証明するわ」「蛍大名って言うなー!」(クリックで表示) 大津城主・京極高次の妹(姉との説も)・竜子(松の丸殿)は豊臣秀吉の側室となり、また高次は淀殿の妹の初(常高院)を正室とした。 元々京極高次は信長に仕えていたが、本能寺の変で明智光秀に味方してしまったため、反逆者とされていた。 しかしそれを秀吉に許された上に、九州と小田原に従軍しただけで6万石と羽柴一族の肩書を得て出世している。 秀吉としては名門の美女を得たかった事、近江や天下の支配に名門京極家の影響力を得たかったとも言われる。 そのため彼女たちの七光り(尻の輝き)で高次は出世したとされ、蛍大名と囁かれた。 ちなみに徳川家康の娘の督姫を娶った事から姫路城主となった池田輝政も蛍大名と呼ばれていた。 七日は持ち堪えたかった(クリックで表示) 元々大津城は港のための城であり、周囲の方が高く不利な地形の城であった。 西軍は毛利元康や立花宗茂率いる1万5千(3万7千との資料もある)、大津兵は3千、劣勢も明らかであった。 大津兵の赤尾伊豆・山田大炊らは夜襲を仕掛け、京極高次自身も奮戦し手傷を二カ所負う。 対する西軍は近くの長等山から大津城天守閣に大砲を撃ちこみ、三の丸二の丸を占拠する。 蛍大名の汚名を返上すべく高次は徹底抗戦していたが、ついに開城し出家する事を決意。 大津城の戦いは1600年(慶長5年)9月7日に始まり、7日後の9月14日に降伏開城した。 高次は翌15日の朝に園城寺に退いて高野山に向かう途上で東軍勝利の報を聞き、あと一日持ちこたえればと悔やんだという。 現実の城情報天正14年(1586年)1月に築城が開始され、8月に坂本城が廃城となった頃に完成した。 大津城の築城は近江から大坂への物流を意識したもので、坂本城は北方に寄りすぎており、坂本城下の街道は京へとつながるものだった。大津城築城以後は直接大坂へとつながる街道が整備され、大坂城を支える東の玄関口となった。 城主も浅野長吉、増田長盛、新庄直頼、京極高次と豊臣家に縁の深い人々が務めている。 大津城といえば関ヶ原の戦いでの籠城戦で知られ、当時の城主京極高次は畿内では数少ない東軍として城に立て籠もり、柳川城主の立花宗茂や毛利家中の主戦派毛利元康らを釘付けにし、関ヶ原の戦いに間に合わせなかったことは余りにも有名である。 関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)には膳所城の築城が決まったため大津城は廃城となり、その資材は膳所城に移され、後に天主が彦根城に移築された。 ちなみに家康は関ヶ原の戦後処理を大津城で行っている。 関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)には膳所城の築城が決まったため防御力の低い大津城は廃城となり、その資材は膳所城に移され、後に天主が彦根城に移築された。 天守移築の理由は縁起が良いからである。大津城は開城したのであって落城してはいないから。 現在の地面はコンクリートの舗装がされ、コンクリートの石碑があり、面影は一部の石垣にのみ見られる。
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