雑学 のバックアップの現在との差分(No.19)
いろいろな雑学を披露できる場です。 たとえば・・・ 各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。 武具について平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。 近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。 中世の武具を専門とする歴史学者近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。 だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。 江戸期には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。 江戸時代には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。 幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。 「三池光世」という刀を開発できますが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。 旧城プロでは「三池光世」という刀を開発できましたが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。 先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。 他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。 脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。 太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。 「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。 大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国期の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。 大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国時代の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。 長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。 刀刀の分類は寸法で大ざっぱに分類されそれぞれに、太刀、打刀、脇差、短刀と区分されています。
槍木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器。 穂の形状によって素槍、鎌槍、十文字槍、鉤槍、管槍など種類が分かれる。 応仁の乱以降、足軽の装備は長槍が主となっていった。 木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器です。 穂の形状によって素槍、鎌槍、十文字槍、鉤槍、管槍など種類が分かれます。 応仁の乱以降、足軽の装備は長槍が主となっていきました。
弓・石弓律令制のもとで各地に置かれた「軍団」は、動員される側にとって負担が重い反面、唐・新羅への警戒や蝦夷との対立と関係がない地域では必要も小さく、東国と九州にだけ比較的後まで大規模なものが残りました。坂上田村麻呂が率いたのもこの種の戦力です。この軍団は基本的には歩兵編成であり、弩も持っていました。
鉄砲最近では、鉄砲が1543年以前から日本に入ってきていた可能性もあるとされていますが、日本への伝来はヨーロッパで火縄銃が登場してからおよそ100年後のことでした。 戦国末期には早合(はやごう)と総称される1発分の装薬(弾を飛ばす火薬)と弾のセットが実用化され、現代の再現実験では再装填まで10秒を切った記録もありますが、同様の西欧の工夫が入ってきたのか独自の発展かは説が分かれています。 戦国末期には早合(はやごう)と総称される1発分の装薬(弾を飛ばす火薬)と弾のセットが実用化され、現代の再現実験では再装填まで10秒を切った記録もありますが、同様の西欧の工夫が入ってきたのか独自の発展かは説が分かれています。 後ろから弾を込める小銃、金属薬莢、起爆薬・雷管による発火はすべて1800年以降に登場しました。 ただ火縄銃は密集隊形に適さなかったのに対し、江戸時代に西欧では火打石を使うフリントロック式小銃が登場しました。 また徴兵制をとる国が増え(イギリスには1916年まで徴兵制が敷かれなかったのが大きな例外です)、密集した大規模な小銃隊を槍隊と組み合わせ、やがて銃剣を使って両方を兼ねさせると言った運用面の進化に大きく後れを取ることになりました。 また徴兵制をとる国が増え(イギリスには1916年まで徴兵制が敷かれなかったのが大きな例外です)、密集した大規模な小銃隊を槍隊と組み合わせ、やがて銃剣を使って両方を兼ねさせると言った運用面の進化に大きく後れを取ることになりました。 逆に言えばそれも戦国の世が過ぎてから相当あとのことでした。ヨーロッパの鎧騎士が傭兵隊と向き合うように、戦国期日本の鎧武者も鉄砲足軽隊との戦いを強いられ、火力と接近戦能力のバランスを試行錯誤していたわけです。 大砲1576年、日本では大友宗麟がポルトガルの宣教師より購入したフランキ砲を「国崩し」と名付けて使ったのが大砲の初見とされます。 城について現実の城年表
城を建てる目的例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。 例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。 重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城(陣城)もありました。 陣城のなかでは、賤ヶ岳の戦いで用いられた玄蕃尾城がよく知られており、続日本100名城に選出されています。 また羽柴秀吉が鳥取城攻めの時に築いた太閤ヶ平も非常に大規模で緻密な構造の陣城と評価されます。 秀吉が関わった陣城とされる墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斎藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。 逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。 備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。 統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた小谷城(山城)を使わず長浜城(琵琶湖沿岸の平山城)に拠ったのは有名です。 江戸城も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。 統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた小谷城(山城)を使わず長浜城(琵琶湖沿岸の平城)に拠ったのは有名です。 江戸城も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。 城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。 京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。 京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。 すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城・鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。 三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。 城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落として兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。 城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落とし、陣城群を築いて包囲網を形成し、兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。 城の変遷当初、城は山城が主流でした。あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。 戦国時代になると越前の一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。 しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのが不可能でした。 経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが多聞山城だと言われています。 山城に比べ、防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。 当初、城は山城が主流でした。山岳寺院を活用でき、あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。 戦国時代になると越前の一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。 しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのは上杉氏の春日山城、三好氏の飯盛山城、尼子氏の月山富田城、毛利氏の吉田郡山城、長宗我部氏の岡豊城などのように、大名クラスの巨大な山城でもない限り不可能でした。 経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国時代中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが松永久秀の多聞山城だと言われています。 山城に比べ、平山城は防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。 そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期にはお城の主眼は所領統治の拠点となり、平城が多く作られました。 防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などが由来します。 防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などに由来します。 ただし、織田信長が清洲城(平城)→小牧山城(平山城、あるいは山城)→岐阜城(山城)→安土城(平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。 城の防衛設備第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。 これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国期の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。 新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。 これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国時代の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。 新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。 なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。 また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒だよ!) また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒ですよ!) また、刀は右上から左下へ振り下ろす方が有利(威力を込められるし、心臓を狙える)であるため、敵に右に曲がらせるという工夫も多く見られます。 こうすると角の出会い頭、攻撃側は刀が石垣で引っかかり、城の防御側は右から振り下ろせ有利に戦えます。 こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。 こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。 また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。 秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。 江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。 江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。
チャシ・グスク上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。 一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが首里城です。 江戸期には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。 江戸時代には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。 ヨーロッパの主な城郭形式日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年から在ると言われているから驚きです。 現在確認されているもっとも古い城塞都市にイェリコ(現パレスチナ自治区領内)があり、その誕生は紀元前9000年ごろと言われています。都市機能も十分発達し、近隣地域との貿易も盛んだったためかなり豊かな街でした。城塞化が進んだのは誕生から約1000年後、財産の防衛のため必要に駆られた結果でした。他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。時代とともに防衛機能の質・手段が徐々に変わってきます。その変遷を以下に紹介してゆきたいと思います。 日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年からあると言われているから驚きです。 現在確認されているもっとも古い城塞都市にイェリコ(現パレスチナ自治区領内)があり、その誕生は紀元前9000年ごろと言われています。 都市機能も十分発達し、近隣地域との貿易も盛んだったためかなり豊かな街でした。城塞化が進んだのは誕生から約1000年後、財産の防衛のため必要に駆られた結果でした。 グラード ヨーロッパによける最も古い築城形式の城塞です。 環状に家屋や施設を囲った木造城壁と土塁が特徴で、当然ですが城塞都市に入るには城門を通るしかありません。 因みにロシア語やブルガリア語で「グラード(град/grad)」は街・都市(城)を指します。 他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。 中国では長安城のような都城が、中央アジアでは「バリク」と呼ばれる城壁を持つ都市が築かれました。 ヨーロッパでは、古代ローマが各地に築いた植民市や軍駐屯地は居住区を城壁で囲み、その外の異民族に対して防御していました。 9世紀の終わり頃までヨーロッパには独立した城と呼べるものはあまりなく、都市や集落の周りに城壁あるいは市壁を築いたこのような城塞都市が主流を占めていました。 城壁や市壁を新設することも12世紀頃までは盛んでした。しかし、当然ながら時代とともに防衛機能の質・手段が徐々に変わってきます。 モット・アンド・ベイリー(Motte-and-bailey) 10世紀ごろに多く見られた城郭形式です。 ベイリーとは中庭を指し、そこには木造建築の家屋や教会などが立てられ、モット(土塁)の上にこれまた木造の建築物が立てられました。 11世紀ごろになると、木造から石造へと材料が入れ替わり、モットの上に主塔(キープ)を配置した堅牢な城塞が誕生しました。 当様式を採用した城はイングランド、ウェールズ、スコットランドに多く点在し、代表格としてはイングランドのウィンザー城が挙げられます。 ヨーロッパの城郭形式いろいろ(長いです)
要塞のたそがれフランスが作ったマジノ線は、ほんの一部がドイツ軍と戦っただけですが、攻撃手段の発達にもかかわらずよく耐えました。唯一ラ・フェルテの砲兵陣地が落ちましたが、これは内部で火災が発生し、一酸化炭素中毒で守備兵が全滅したためでした。 第2次大戦では、戦車の砲塔を地面に据えたり、戦車そのものを埋めたりして防御に優れた陣地を速成することがよくありました。これらはコンクリートと鉄で固められた要塞と違って、上から大口径の砲弾が降ってきたらあまり防御力はありませんでした。ドイツはPanzernestと呼ばれる、重さ1.4トンの鉄とコンクリートでできた可動陣地を工場で作り、馬車や自動車で現地に運び、穴を掘って埋めました。兵士2名が機関銃と銃弾5000発を持ってこもれる銃塔で、当時の説明書には「47ミリ戦車砲までははじける」と書いてありました。 地下施設に対して有効な特殊爆弾をはじめとして、要塞を攻撃する手段が発達した結果、固定要塞は作られなくなってきました。とはいえ重要人物や確保したい地域がなくなるはずもなく、「所在を知られた要塞」が消えたと言うべきかもしれません。 現実の城の数ってどれくらい?日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。日本100名城の候補に挙がった城だけでも478城あります。 ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。 三大築城名人藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。 また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞがの手がけた代表的な城に、熊本城、伊賀上野城があります。 また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞれの手がけた代表的な城に、熊本城、伊賀上野城があります。 実際に行ってみたい!未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。 また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。 そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、西股総生『土の城指南』という書籍がおすすめです。 そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、戦国史学者の西股総生氏の著作『土の城指南』という書籍がおすすめです。 水城の定義について歴史紀行作家の中山良昭氏の著作『オールカラーでわかりやすい! 日本の城』より引用。
城の定義について城には役割に応じて本城・支城・出城・境目の城・つなぎの城などがあります。 本城;領域支配の中心となる当主の居城。安土・躑躅ヶ崎館・春日山など。いわゆる都道府県庁 支城:領域支配を行う時いくつかに分けて支配することがあり、その中心の城。北ノ庄・坂本・長浜など。いわゆる区市町村庁 出城:本城や支城を守ったり兵糧など別置のため少し離れた所や連結させて築いた城。真田丸など。いわゆる区市町村庁の支部や別館 境目の城:領土の最前線に築かれた城。そこから領土が広まれば支城になったりした。佐和山・山中など。いわゆる国境警備所 つなぎの城:本城や支城など緊急時のためのろし台や連絡人が詰めていた城。飛山など。いわゆる防災無線のスピーカー 政治について官位奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。 宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国期になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。 宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国時代になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。 例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。 三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川家の勢力を三河から追い出したタイミングでした。 三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川氏の勢力を三河から追い出したタイミングでした。 このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。 興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。 「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。 儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。
大臣・納言・参議平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。 左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。 その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。 その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。 近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。 五畿七道五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。 五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。
また、明治2年には北海道が新設されて五畿八道となった。 また、明治2年(1869年)には北海道が新設されて五畿八道となりました。
国名・都道府県一覧
令制国(律令国)尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。 郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。 鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。 さすがに戦国期になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。 さすがに戦国時代になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。 一揆武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。) 有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。 石高その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。 その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。 この量が多ければ多いほど、その土地、国は豊かであるといえましょう。 たとえば、当時最大の穀倉地帯であった加賀国は「加賀百万石」と称せられ、豊臣五大老のひとり、前田利家が預かっていた国として有名です。 城娘のセリフ殿様「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。 「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。 「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。 しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。 平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。 また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。 平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。 また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。 足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。 普請(ぶしん)「島普請だけじゃのうて穴太衆も呼ぼうでえ」「天下普請の城を侮るでない」、ゲーム内でも時折登場する台詞ですが普請とは一体何でしょうか。 平たく言えば土木工事における基礎工事を指します。実際に櫓を立てたり壁を設けたり御殿を立てたりする作業は「作事(さくじ)」と言い、普請には含まれません。 「城普請」と聞けば「建物として城を立てる」と思いがちですが、その実、塀・堀・石垣を築くことを意味し、あくまで建築は付属の扱いなのです。 穴太衆(あのうしゅう)近世城郭で石垣は無くてはならない存在です。防衛においても要の要、ここが崩されると城の防備は一気に無力と化してしまいます。 そんな大事な礎の部分を任された石積み職人を通称「穴太衆(あのうしゅう)」といいますが、必ずしも近江の穴太を指すわけではありません。 俗説では朝鮮式石積み技術を持った高麗人(または百済人とも)が日本に帰化し、九州から本土へと移住の末、技術が伝来していったとされます。 石積み職人の技術を余すことなく発揮した最初の城郭は何といっても安土城でしょう。 比叡山の麓に住んでいた彼らは日頃より寺院の石積みを担当しており、その技術を買われ安土城の総石垣という大事業に参加しました。 「見せる城」安土城も石積み職人の力がなくては完成しなかったことでしょう。 徳川御三家「徳川御三家、紀州和歌山城、見参!」とあるように、徳川幕府成立後、和歌山城は紀州徳川家、名古屋城は尾張徳川家、水戸城は水戸徳川家という徳川御三家の城になりました。 これらの城は徳川美術館の見解によると、あくまで徳川将軍が城主であり、それぞれの藩主は城代であるとされますが、他に幕府直轄の城となった歴史がある城としては、江戸城、徳川大坂城、駿府城、二条城、水口城などがあります。 妖怪について妖怪とは、一般的に日本や中国などの東洋に古来から伝わる怪物の総称です。 また、最もポピュラーな妖怪の一体である鬼は様々な解釈が存在し、魂という字に使われているように死者の霊を差すこともあれば、酒呑童子の伝説のように盗賊であることもあり、赤い肌に虎皮の腰巻きという風体から外国人の隠喩であるとも考えられています。 外部スタッフ・関係者音響演出濱田弘之本作の音響演出を担当。T's MUSIC所属。代表作は『戦国BASARA』シリーズ、『ダンボール戦機』シリーズなど。 ドット絵タコヤキネコさん本作のドット絵の一部(30キャラほど)を担当。代表作は『千年戦争アイギス』、『テイルズ オブ ハーツ』など。 PV(『御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~ 城娘 いざ尋常に勝負!』)出演(リンク先音量注意)2016年12月20日に公開された実写PV。ロケ地は日光江戸村である。(ソースは「純血1441話 仮面女子『月野もあ 大暴れ!「御城プロジェクト:RE」 プロモーションムービー撮影風景」) 月野もあ一乗谷城役。 PV内では逆真空手初段の腕前を披露した。アイドルグループ『仮面女子』のメンバー。 渡辺万美(ばんび)馬場城役。 連続テレビ小説『あまちゃん』、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、『ラブホの上野さん』などに出演。 浜田由梨鳥取城役。 『月の恋人〜Moon Lovers〜』などに出演。 池田ゆり仁木館役。 『最高の離婚 Special 2014』などに出演。 秦瑞穂黒川城役。 『轟轟戦隊ボウケンジャー』、『侍戦隊シンケンジャー』、『特命戦隊ゴーバスターズ』などに出演。 沖山翔也水攻めの計略を受けた侵入者役。 『弱くても勝てます ~青志先生とへっぽこ高校球児の野望~』、『「マーベル ツムツム」TVCM 「玄人な2人」篇』、『闇金ウシジマくんpart3』などに出演。 その他クライマックスの敵役として出演した男性は中国拳法の大会で優勝経験あり。 その他、DMM.comラボの社員らが出演。 コメント |
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