岩殿山城 のバックアップの現在との差分(No.10)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | ランス | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
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岩殿山城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:秦佐和子
特殊ボイス: 利用可能 画像イラストレーター:シソ
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 ぽんぽん(クリックで表示) 御嬢姿のぽんぽんは結袈裟(ゆいげさ)で城が築かれる前は修験道の場となっていた。 御嬢姿のぽんぽんは結袈裟(ゆいげさ)で城が築かれる以前の岩殿山は修験道の霊場となっていた。 杖(クリックで表示) 杖の先端は小山田氏の家紋「立ち沢瀉(たちおもだか)」を模していると思われる。 杖(錫杖)の先端は小山田氏の家紋「立ち沢瀉(たちおもだか)」を模していると思われる。 【特技・計略】 離間の計(クリックで表示) 言葉・手紙・噂などで複数の相手を惑わし結束を弛めたり裂いたりして、漁夫の利を得ようとする行為。 【セリフ】 泣き虫な城娘とは、組ませないでくださいねぇ?(クリックで表示) 信長の武田征伐で小山田信茂が処刑されると、側室らが脱出を図ったものの赤子が泣き叫んだため、見つからないよう崖から投げ落としたという伝説の「稚児落とし」がある。 現実の城情報甲斐・武蔵・相模・駿河の国境近くに位置する標高634メートル、比高250メートルの岩殿山に築かれ、武田氏の北条氏に対する備えの要となった城で、岩櫃城・久能山城とともに武田三堅城(武田三名城)と称される。 続きをクリックで表示 そのため武田氏は国境の備えとしての岩殿山城を重視し、天正8年(1580年)に後北条氏が甲斐と武蔵の国境を越え、岩殿山城にほど近い西原に侵攻してきたことへの対応として、岩殿山城に荻原豊前らを配備して防備を強化している。 岩殿山にはかつて天台宗の寺院である円通寺が存在し、中世には天台系聖護院を本山とする本山派修験の場として栄えた。 城郭は「鏡岩」と呼ばれる巨大な一枚岩がむき出しになっている岸壁上に築かれ、縄張はほぼ自然地形のままとなっている天険の要害であり、そのため城郭は山頂部に集中している。 このように岩殿山城は全方面が急峻な地形に囲まれた、自然地形を最大限に活用した峻険な山城だが、亀ヶ池という現在でも水が湧き出ている池が存在し、籠城戦での水の心配は無かったと思われる。 現在は山梨県指定史跡に指定され天守らしき資料館がある。城を見るだけならスニーカーでも登れないこともないが、稚児落としまで見るにはある程度の登山装備が必要となる。
郡内の国衆・小山田氏(クリックで表示) 郡内の国衆・小山田氏小山田氏は越中守信有の頃、甲斐国守護の武田信虎に攻められ和睦するとこれに与したが、正確には穴山氏と同様に武田氏の従属国衆であり家臣ではなく、戦国時代に滅亡するまでは領主としての独立性は保っていた。 信茂は天正10年(1582年)に武田氏が織田信長に攻められた際、木曾義昌や穴山梅雪が織田に寝返ったあとも武田勝頼に従い、新府城から退去時は真田昌幸は岩櫃城への退去を勧めたが、 余談だが、信茂と言えば三方ヶ原の戦いの投石部隊で知られるが、『信長公記』には「水役之者」、『三河物語』には「郷人原」という投石部隊がいたとあるのみで、信茂が投石部隊の指揮官だったという説は『總見記』の誤読によるものとみられている。 コメント議論板
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