赤穂城 のバックアップ(No.4)
現実の城情報
平戸城が言及する城。 続きをクリックで表示 赤穂城の縄張の特徴は屏風折れの土塀や多角形の曲輪群で、本丸は星型に近い多角形で、二の丸と三の丸もまた多角形で要所要所に櫓や城門が配置された。 このように赤穂城は軍学者が近世軍学の研究成果を注ぎ込んだような城だったが、5万3千石という赤穂浅野家の石高に対して明らかに過剰な備えであり、赤穂藩は常に財政難に悩まされた。 その後、一時永井直敬が入ったのち宝永3年(1706年)に森長直が入ってからは、森家12代の居城として明治維新まで存続した。 平成14年(2002年)には本丸庭園と二の丸庭園が国の名勝に指定され、発掘調査をもとに庭園遺構を活かした計画的な史跡整備事業が進められている。
赤穂事件と忠臣蔵(クリックで表示) 赤穂事件と忠臣蔵
江戸城松之大廊下刃傷事件
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下にて、播州赤穂3代藩主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭・吉良上野介義央に斬りつけるという事件が起きた。 事件を目撃した梶川頼照(与惣兵衛)の『梶川与惣兵衛日記』によると、内匠頭は「此間の遺恨覚えたるか」と上野介のうしろから声をかけ斬りつけ、驚いた上野介が振り向くとまた斬りつけ、上野介は梶原の方に逃げるとまた二太刀ほど斬りつけられ、うつむきに倒れたという。 その後、内匠頭は老中である忍藩主・阿部豊後守正武の取り調べを受けると、江戸城平川門より田村右京大夫の屋敷に護送された。 内匠頭の辞世の句とされる「風さそふ 花よりもなを われはまた 春の名残を いかにとかせむ」は検使役を務めた重共の創作と考えられ、内匠頭が自身の差料の刀で介錯されたという逸話も事実とは考えられない。 赤穂城明け渡し
上記の刃傷事件は赤穂事件の始まりに過ぎず、江戸城より赤穂城へ、内匠頭の切腹と赤穂浅野家の取り潰しを伝える急報が届くと、赤穂藩は大きく動揺した。 問題は赤穂城の明け渡しであるが、あくまで内蔵助ら赤穂浅野家家臣の主君は内匠頭であり、将軍からの命令があったからと言って容易に応じるわけにはいかなかった。 吉良邸討ち入り
こうして浪人となった赤穂藩士は次第に困窮したが、将軍の怒りを買って長広が「閉門」という処罰を受けていたため広島藩や大垣藩も援助できず、赤穂浅野家再興も期待できなかったため、安兵衛に同調し討ち入りを決意する者が増えていった。 しかし、元禄15年(1702年)7月18日に長広が広島藩の浅野本家に引き取られることが決定し、赤穂浅野家再興の望みが完全に断たれたため、内蔵助も円山で会議を開くとついに吉良邸討ち入りの決意を表明した。 内蔵助は曾我兄弟が仇討ち成功の祈願をしたとされる箱根神社や、鶴岡八幡宮で討ち入り成功の祈願をすると、服装を黒の小袖で統一し、武器は各々自由に用意するように通達した。 吉良邸討ち入りは仇討ちという大義名分を利用した赤穂浪士の再就職活動であったという説もあるが、彼らが家族に宛てた手紙を見ると、死を覚悟した討ち入りであったようである。 討ち入り当日、吉良邸には100人以上の家臣がいたとされるが、実際に戦闘に参加したのは40人程度であり、表立って赤穂浪士に味方をすることはできないが同調した者もいたようである。 赤穂浪士のその後
大目付の仙石伯耆守久尚へ報告をしに行った吉田兼亮(忠左衛門)と富森正因(助右衛門)の二人と、仔細は不明であるがいつの間にか姿を消していた寺坂信行(吉右衛門)を除く内蔵助ら赤穂浪士は討ち入りのあと泉岳寺に引き揚げた。 赤穂浪士の処分については幕府も彼らが忠臣であることは理解しており苦慮したが、結局討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めず、切腹を命じた。 この一連の事件を「赤穂事件」と呼び、寛延元年(1748年)に成立した浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の影響もあって、現代でも『忠臣蔵』としてよく知られている。 コメント
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