雑学 のバックアップの現在との差分(No.36)
いろいろな雑学を披露できる場です。 たとえば・・・ 各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。 武具について平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。 だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。 旧城プロでは「三池光世」という刀を開発できましたが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。 脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。 太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。 「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。 刀刀の分類は寸法で大ざっぱに分類されそれぞれに、太刀、打刀、脇差、短刀と区分されています。
槍木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器です。
弓・石弓律令制のもとで各地に置かれた「軍団」は、動員される側にとって負担が重い反面、唐・新羅への警戒や蝦夷との対立と関係がない地域では必要も小さく、東国と九州にだけ比較的後まで大規模なものが残りました。坂上田村麻呂が率いたのもこの種の戦力です。この軍団は基本的には歩兵編成であり、弩も持っていました。
鉄砲最近では、鉄砲が1543年以前から日本に入ってきていた可能性もあるとされていますが、日本への伝来はヨーロッパで火縄銃が登場してからおよそ100年後のことでした。 後ろから弾を込める小銃、金属薬莢、起爆薬・雷管による発火はすべて1800年以降に登場しました。 ただ火縄銃は密集隊形に適さなかったのに対し、江戸時代に西欧では火打石を使うフリントロック式小銃が登場しました。 大砲1576年、日本では大友宗麟がポルトガルの宣教師より購入したフランキ砲を「国崩し」と名付けて使ったのが大砲の初見とされます。 城について現実の城年表
城を建てる目的例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。 備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。 城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。 京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。 城の変遷当初、城は山城が主流でした。山岳寺院を活用でき、あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。 ただし、織田信長が清洲城(平城)→小牧山城(平山城、あるいは山城)→岐阜城(山城)→安土城(平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。 城の防衛設備第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。 こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。 また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。 秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。
チャシ・グスク上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。 一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが首里城です。 ヨーロッパの主な城郭形式日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年からあると言われているから驚きです。 他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。 ヨーロッパの城郭形式いろいろ(長いです)
要塞のたそがれフランスが作ったマジノ線は、ほんの一部がドイツ軍と戦っただけですが、攻撃手段の発達にもかかわらずよく耐えました。唯一ラ・フェルテの砲兵陣地が落ちましたが、これは内部で火災が発生し、一酸化炭素中毒で守備兵が全滅したためでした。 第2次大戦では、戦車の砲塔を地面に据えたり、戦車そのものを埋めたりして防御に優れた陣地を速成することがよくありました。これらはコンクリートと鉄で固められた要塞と違って、上から大口径の砲弾が降ってきたらあまり防御力はありませんでした。ドイツはPanzernestと呼ばれる、重さ1.4トンの鉄とコンクリートでできた可動陣地を工場で作り、馬車や自動車で現地に運び、穴を掘って埋めました。兵士2名が機関銃と銃弾5000発を持ってこもれる銃塔で、当時の説明書には「47ミリ戦車砲までははじける」と書いてありました。 地下施設に対して有効な特殊爆弾をはじめとして、要塞を攻撃する手段が発達した結果、固定要塞は作られなくなってきました。とはいえ重要人物や確保したい地域がなくなるはずもなく、「所在を知られた要塞」が消えたと言うべきかもしれません。 現実の城の数ってどれくらい?日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。日本100名城の候補に挙がった城だけでも478城あります。 ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。 三大築城名人藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。 また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞがの手がけた代表的な城に、熊本城、伊賀上野城があります。 また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞれの手がけた代表的な城に、熊本城、伊賀上野城があります。 実際に行ってみたい!未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。 また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。 水城の定義について歴史紀行作家の中山良昭氏の著作『オールカラーでわかりやすい! 日本の城』より引用。
城の定義について城には役割に応じて本城・支城・出城・境目の城・つなぎの城などがあります。 本城;領域支配の中心となる当主の居城。安土・躑躅ヶ崎館・春日山など。いわゆる都道府県庁 支城:領域支配を行う時いくつかに分けて支配することがあり、その中心の城。北ノ庄・坂本・長浜など。いわゆる区市町村庁 出城:本城や支城を守ったり兵糧など別置のため少し離れた所や連結させて築いた城。真田丸など。いわゆる区市町村庁の支部や別館 境目の城:領土の最前線に築かれた城。そこから領土が広まれば支城になったりした。佐和山・山中など。いわゆる国境警備所 つなぎの城:本城や支城など緊急時のためのろし台や連絡人が詰めていた城。飛山など。いわゆる防災無線のスピーカー 政治について官位奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。 例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。 興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。 「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。 儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。
大臣・納言・参議平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。 左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。 近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。 五畿七道五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。
また、明治2年(1869年)には北海道が新設されて五畿八道となりました。
国名・都道府県一覧
令制国(律令国)尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。 郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。 鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。 一揆武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。) 有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。 石高その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。 城娘のセリフ殿様「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。 平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。 足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。 普請(ぶしん)「島普請だけじゃのうて穴太衆も呼ぼうでえ」「天下普請の城を侮るでない」、ゲーム内でも時折登場する台詞ですが普請とは一体何でしょうか。 穴太衆(あのうしゅう)近世城郭で石垣は無くてはならない存在です。防衛においても要の要、ここが崩されると城の防備は一気に無力と化してしまいます。 徳川御三家「徳川御三家、紀州和歌山城、見参!」とあるように、徳川幕府成立後、和歌山城は紀州徳川家、名古屋城は尾張徳川家、水戸城は水戸徳川家という徳川御三家の城になりました。 妖怪について妖怪とは、一般的に日本や中国などの東洋に古来から伝わる怪物の総称です。 また、最もポピュラーな妖怪の一体である鬼は様々な解釈が存在し、魂という字に使われているように死者の霊を差すこともあれば、酒呑童子の伝説のように盗賊であることもあり、赤い肌に虎皮の腰巻きという風体から外国人の隠喩であるとも考えられています。 コメント |
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