三本松城 のバックアップの現在との差分(No.21)
城娘ステータス: 全城娘一覧(刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 平属性 | 平山属性 | 山属性 | 水属性 | 地獄属性 | 無属性)初期ステータス 装備品: 刀 | 槍 | 槌 | 盾 | 拳 | 鎌 | 戦棍 | 双剣 | 弓 | 石弓 | 鉄砲 | 大砲 | 歌舞 | 法術 | 鈴 | 杖 | 祓串 | 本 | 投剣 | 鞭 | 陣貝 | 軍船 | その他 || 施設 || 消耗品 | 城娘: 特技(攻撃系 / 防御系 / 弱体化他) | 所持特技 | 編成特技 | 大破特技 | 特殊攻撃 | 特殊能力 | 武器切替 | 計略(伏兵以外 / 伏兵) | 都道府県別 | 令制国別 | 季節限定城娘 | 特定カテゴリ |
赤数字は無印での最大レベルかつ絆100%時の値です。★1=Lv90、★2=Lv95、★3=Lv100、★4=Lv105、★5=Lv110、★6=Lv115、★7=Lv120
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三本松城/ステータス※絆100%ボーナス込みの数値です。項目の「突破」はそのレベルに到達するのに必要な限界突破の回数を表しています。
ゲーム上の性能・評価
キャラクターボイスCV担当:浜崎奈々
画像イラストレーター:
改壱
城娘の元ネタ情報【デザイン】 【特技・計略】 鷺舞(クリックで表示) 主として八坂信仰の神社にて奉納される伝統舞踊。 【セリフ】 現実の城情報永仁3年(1295年)、沿岸防備のため西石見地方の地頭として赴任していた吉見頼行が築城を始め、息子・吉見頼直の代に完成したとされる。 吉見正頼は陶晴賢打倒のために挙兵したが、晴賢と大内義長に三本松城を包囲され和睦した。(三本松城の戦い) 時代とともに拡張が行われていったと考えられるが、土塁空堀を多用した典型的中世山城であったと考えられている。 また、南北に支城網(北は下瀬城、南は賀年城をそれぞれ軸とする)を構築し、これらと連携して防御を行えるようになっていた。 続きをクリックで表示 吉見氏は東の益田氏とともに石見国の有力国人であったが、大内氏の勢力に接する形となっており、時代がくだるにつれ大内氏との関係が強まっていった。 具体的には9代目頼興は応仁の乱において大内義興に従い京に出兵しており、その庶子で後を継いだ10代目正頼は大内義隆の娘を娶ることでその重臣となった。 そのため、大内義隆が大寧寺の変で陶隆房(変後晴賢に改名)に討たれると、反陶の旗色を明確にした。 これは、所領を接する陶氏と吉見氏は長年対立関係にあった上、前年に吉見領に侵攻した益田藤兼(これは撃退に成功している)は陶隆房の従弟で隆房はその肩をもっていたことも大きく影響しているとされる。 何にせよ、天文22年(1553年)秋、吉見正頼は陶晴賢に対し、大内義隆の敵討ちを名分に挙兵、派兵されてきた陶方の軍勢を打ち破った。 その一方、挙兵前には陶晴賢とは協力関係にあるはずの毛利元就に使者を派遣し、挙兵への支援を要請している。 これは、備後の江田氏討伐の戦後処理以降陶晴賢と毛利元就の間に隙間風が吹き始めていたことから、これに期待したものと思われる。 しかし、毛利氏は動くことなく(これについては毛利元就が消極的であったとされる)、翌年3月、陶晴賢が益田藤兼とともに大軍を率いて出陣すると、それを単独で迎え撃つこととなった。 重要な支城である賀年城はわずか1日で落城したものの、三本松城と下瀬城は互いに連携して籠城戦を繰り広げ、特に三本松城は陶氏による12回の攻撃を退けるなど、大軍相手に善戦した。 一方、この間に中国地方の情勢は大きく動き出していた。 陶晴賢は出陣にあたり毛利元就にも出兵を求めたものの、毛利氏にその動きがなく(一説では反陶であった毛利隆元やそれに同調する一部重臣の声が強く、家中の意見がまとまらなかったとされる)、 これに業を煮やした陶晴賢は備後や安芸の国人に密かに直接使者を送り、彼らの兵力を徴発しようとした。 陶晴賢のこの行為は、大寧寺の変において、陶晴賢が毛利元就を味方につけるためにした約束、安芸・備後の国人らの統治を元就に任せる、を完全に反故にしたものであったが、 前述のように、陶氏と毛利氏の関係は冷え切っており、これを機に毛利氏を排し、安芸・備後の直接統治に乗り出そうとしたと見ることもできる。 しかし、すでに安芸北東部から備後にかけては毛利氏を頂点とする統治機構が確立されつつあり、陶氏の使者は毛利氏傘下の有力国人平賀広相によって捕らえられ、毛利氏の元に連行されてしまう。 ここに至って毛利元就も反陶の腹を固め、有力国人らの支持を確認の上、陶本隊が三本松城攻めで釘付けになっている最中の5月12日に挙兵、わずか1日で佐東銀山城、桜尾城、己斐城、草津城(桜尾城支城)、厳島を手中に収め、 (1日でここまで一気におさえられたのは、三本松城出兵のためにこれらの城の兵力が少なくなっており、これを利して事前に安全な退去と引換に城を明け渡すことで話をつけていたためである、事前準備の入念さがよくわかる) その後も陶方国人領主を攻め立て、水軍拠点として重要な仁保島城を攻め取るなど、同月内に安芸国の陶氏勢力圏の大半を勢力下におさめた(防芸引分)。 陶方は翌6月になり宮川房長に3000の兵をつけて安芸に向かわせたが、迎え撃った毛利氏の軍勢の前に惨敗、宮川房長は討死した(折敷畑の戦い)。 陶晴賢はその後も傘下の水軍衆や反毛利一揆衆らを支援することで牽制を図るもその勢いを止めることができなかった(翌年には調略により引き込んだ矢野城主野間隆実を支援したがやはり失敗している)。 そのため、毛利氏に対抗するためにも、三本松城で釘付けになっている本隊を引き上げる他に選択肢はなく、一方の吉見氏側も、籠城に必要な兵糧に余裕がなくなってきており、両者ともにこれ以上の戦闘継続は困難であった。 以上の状況から、9月に入り吉見正頼が息子亀王丸を人質に出すことで講和が成立。吉見氏はこれにより賀年城などを失うが、三本松城は支城下瀬城とともに、最後まで落城することはなかった。 春から続いたこの籠城戦は、現在では三本松城の戦いと呼ばれており、この間に起こった毛利氏の離反とあわせ、大内義長-陶晴賢政権の基盤を揺るがし、崩壊に向かう端緒となったと位置づけられている。 厳島の合戦で毛利氏が陶晴賢を討ち取り、弘治3年(1557年)に周防・長門に侵攻すると、吉見正頼もこれに同調し出兵。三本松城の戦いで失った旧領を回復するとともに毛利氏に先んじて山口を陥落させた。 以降は毛利氏の家臣として活動し、毛利輝元が家督を継いだ時にはその補佐役を任されている。 その後も吉見氏は毛利氏の有力家臣であったが、関ヶ原の戦いによって、毛利氏が長門・周防の2カ国のみとなると萩へ移住することとなり、さらに吉見広長が出奔・帰参の末、元和4年(1618年)讒言により毛利輝元に追討されたことで断絶した。 一方、吉見氏が離れた後の三本松城には坂崎直盛が入り、直盛は三本松城を近世城郭にするための改修を行った。そうして完成したのが津和野城である。
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