永正17年(1520年)、武田信虎が躑躅ヶ崎館の背後の積翠寺丸山に築城したことが『甲陽日記(高白斎記)』に記されている。 大永元年(1521年)に駒井昌頼が城主に任命され、直後には駿河の今川氏が甲斐に侵攻してきたため、懐妊中だった信虎夫人(大井夫人)は要害山城に避難し、そのなかで武田晴信が誕生した。 要害山城は躑躅ヶ崎館の北側を通る街道を押さえる要衝に位置し、館の西側の街道を押さえる湯村山城、館の南側に位置し東西南北へ通じる主要街道を押さえる一条小山城とともに、三方から躑躅ヶ崎館を守っていた。 天正3年(1575年)、長篠の戦いで大敗した武田勝頼は要害山城の修築を命じたが、結果的には新府城築城に伴う本拠移転によって、武田氏滅亡時に要害山城が戦場となることはなかった。
続きをクリックで表示
『甲斐国志』によると天正壬午の乱でも引き続き駒井氏が警護しており、利用可能な状態で維持されていたと考えられる。 遺構から判断すると躑躅ヶ崎館と同様に要害山城も加藤光泰によって織豊系城郭に改修され、慶長5年(1600年)前後に廃城になったとされる。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示