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雑学 のバックアップ(No.23)
いろいろな雑学を披露できる場です。 たとえば・・・ 各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。 武具について
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| 時期 | 概要 |
| 弥生時代 | 吉野ヶ里など環濠集落の出現。 |
| 大化3年(647年) | 渟足柵設置。記録上最初の古代城柵。 |
| 天智天皇2年(663年) | 白村江の戦い。以後、唐・新羅の侵攻に備えた大野城など古代山城の出現。 |
| 大宝元年(701年) | 大宰府、政府機関として確立。 |
| 和銅3年(710年) | 平城京に遷都、奈良時代の始まり。 |
| 神亀元年(724年) | 多賀城築城。古代城柵の代表例とされる。 |
| 延暦13年(794年) | 平安京に遷都、平安時代の始まり。 |
| 弘仁2年(811年) | 徳丹城設置。記録上最後の古代城柵。 |
| 10世紀後半 | 大鳥井山築城。初期の山城の出現。 |
| 治承4年(1180年) ~ 建久3年(1192年) | 鎌倉幕府の成立。中世山城の出現。 |
| 元弘元年(1331年) | 後醍醐天皇、笠置山城で挙兵。南北朝時代の幕開け。山岳寺院の活用。守護館の出現。 |
| 明徳3年(1392年) | 南北朝の合一。南北朝時代の終焉。 |
| 応仁元年(1467年) ~ 文明9年(1477年) | 応仁の乱による戦国時代の幕開け。籠城戦の本格化。大名系城郭の広がり。 |
| 天正7年(1579年) | 織田信長による安土城の天主建築を契機とする織豊系城郭の出現。 |
| 天正10年(1582年) | 明智光秀の謀反により織田信長横死。(本能寺の変) |
| 天正18年(1590年) | 豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城開城、奥州仕置の完了。戦国時代の終焉。 |
| 慶長5年9月15日 (1600年10月21日) | 関ヶ原の戦い終戦。以後、江戸城、名古屋城など徳川政権による天下普請の開始。 |
| 慶長20年5月8日 (1615年6月4日) | 大坂の陣の終結。徳川家康による天下統一。 |
| 慶長20年6月13日 (1615年8月7日) | 江戸幕府による一国一城令。 |
| 嘉永6年(1853年) | 品川台場など台場の出現。 |
| 文久2年(1863年) | 最後の日本式城郭石田城が完成。 |
| 慶応4年1月2日 (1868年1月26日) | 戊辰戦争の勃発。 |
| 明治2年5月18日 (1869年6月27日) | 五稜郭の旧幕府軍が新政府軍に降伏。戊辰戦争の終結。 |
| 明治4年7月14日 (1871年8月29日) | 明治政府による廃藩置県。 |
| 明治4年8月20日 (1871年8月29日) | 明治政府、仙台城、江戸城、大坂城、熊本城に鎮台を設置。 |
| 明治6年1月14日 (1873年1月14日) | 明治政府による廃城令。 |
| 明治6年1月14日 (1873年1月14日) | 明治政府、名古屋城、広島城に鎮台を設置。 |
| 明治10年9月24日 (1877年9月24日) | 西南戦争終結。熊本城の戦い。 |
例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。
重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城(陣城)もありました。
陣城のなかでは、賤ヶ岳の戦いで用いられた玄蕃尾城がよく知られており、続日本100名城に選出されています。
また羽柴秀吉が鳥取城攻めの時に築いた太閤ヶ平も非常に大規模で緻密な構造の陣城と評価されます。
秀吉が関わった陣城とされる墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斎藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。
逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。
備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。
統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた小谷城(山城)を使わず長浜城(琵琶湖沿岸の平城)に拠ったのは有名です。
江戸城も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。
城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。
逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。
京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。
すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城・鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。
三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。
城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落とし、陣城群を築いて包囲網を形成し、兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。
当初、城は山城が主流でした。山岳寺院を活用でき、あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。
戦国時代になると越前の一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。
しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのは上杉氏の春日山城、三好氏の飯盛山城、尼子氏の月山富田城、毛利氏の吉田郡山城、長宗我部氏の岡豊城などのように、大名クラスの巨大な山城でもない限り不可能でした。
経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国時代中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが松永久秀の多聞山城だと言われています。
山城に比べ、平山城は防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。
そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期にはお城の主眼は所領統治の拠点となり、平城が多く作られました。
防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などに由来します。
ただし、織田信長が清洲城(平城)→小牧山城(平山城、あるいは山城)→岐阜城(山城)→安土城(平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。
第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。
これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国時代の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。
新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。
なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。
また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒ですよ!)
また、刀は右上から左下へ振り下ろす方が有利(威力を込められるし、心臓を狙える)であるため、敵に右に曲がらせるという工夫も多く見られます。
こうすると角の出会い頭、攻撃側は刀が石垣で引っかかり、城の防御側は右から振り下ろせ有利に戦えます。
こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。
また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。
秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。
江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。
| ▼ | その他いろいろ |
石落とし 狭間 堀(濠・壕・隍) |
上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。
チャシは「柵」「囲い」などと訳され、16世紀~18世紀頃にアイヌ民族が祭司や集会の場として築いたと言われ、500以上あったことが確認されていますが、はっきりとは分かっていません。
城として用いられたことが分かっているチャシとしてはシベチャリチャシがあり、和人(アイヌ民族以外の日本人)に対抗するためアイヌ民族の首長・シャクシャインが用いています。
一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが首里城です。
構造としては丸みを帯びた石垣が複雑な曲線を描き反りがなく、石造りのアーチ式の門を城門とし木造の楼閣を上げたものの、隅櫓に相当するものがないといった特徴がありました。
江戸時代には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。
日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年からあると言われているから驚きです。
現在確認されているもっとも古い城塞都市にイェリコ(現パレスチナ自治区領内)があり、その誕生は紀元前9000年ごろと言われています。
都市機能も十分発達し、近隣地域との貿易も盛んだったためかなり豊かな街でした。城塞化が進んだのは誕生から約1000年後、財産の防衛のため必要に駆られた結果でした。
他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。当然ながら時代とともに防衛機能の質・手段が徐々に変わってきます。
| ▼ | 主な城郭形式 |
グラード モット・アンド・ベイリー(Motte-and-bailey) 余談ですが、キープはフランス語で「ドンジョン-donjon(語源はラテン語のドミニウム)」と言い封建権力の象徴です。 集中式城郭 カーテンウォール式城郭 マナーハウス |
日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。日本100名城の候補に挙がった城だけでも478城あります。
また、海外にもヨーロッパ100名城と呼ばれる城などがあり、ネタ切れの心配はないと思われます。
ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。
たとえば、真田丸をあくまで大坂城の一部と考えるのか、独立した一つの城として考えるのかといった問題があります。
また、史料に名前があるのみで遺構が見つかっていない、あるいは遺構があるのみで史料に名前がない城をカウントするか否かといった問題もあります。
要するに広い方に解釈すると5万ということになります。
藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。
ただし、如水に関しては資料によってまちまちで、彼を省いて高虎、清正が二大築城名人として挙げられることもあります。
建築様式は清正、如水と高虎とで異なっており、前二者が「複雑化させた縄張りで侵入しにくくする」というものに対し後者は「深い堀と高い石垣で侵入を阻む」というものです。
また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞがの手がけた代表的な城に、熊本城、伊賀上野城があります。
未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。
特に山城では熊が出没したり転倒・転落事故が発生したりすることもあり、実装城でも例があります。決められた登山道や案内係の注意を守りましょう。
動きやすい服装や靴にし、水分補給や汗拭きタオル、虫除けスプレー、暗くなりそうなら懐中電灯なども忘れずに。
また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。
そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、戦国史学者の西股総生氏の著作『土の城指南』という書籍がおすすめです。
歴史紀行作家の中山良昭氏の著作『オールカラーでわかりやすい! 日本の城』より引用。
水城、海城には海面、湖面そのものを濠の代わりとしたり、海水、湖水を濠に引き込んで、防衛のために利用する側面と、港湾の監視と水軍、水運の監視と水軍、水運の管理という両面の目的があります。
奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。
年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。
宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国時代になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。
例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。
室町幕府の名門・斯波氏の家臣となった際に朝廷から与えられた官位を、長期にわたり勝手に世襲したものです。
足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。
三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川氏の勢力を三河から追い出したタイミングでした。
このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。
興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。
「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。
ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。
なお本ゲームには出てきませんが、従五位下より下にも官位はあります。ただ、貴族として扱われるのは従五位下からだったようです。
儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。
| ▼ | 官位一覧 |
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平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。
ただし、当時すでに長男の平重盛が権大納言まで昇進していましたが。
のちに豊臣秀吉は大名たちに官位を大盤振る舞いしたこともあって、差をつけるためか太政大臣に長いこととどまりました。
左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。
会議のメンバーとなったのが大納言、中納言、参議といった人たちで、公家の家格は摂政・関白になれる家を筆頭に、大納言までなれる家など細かく決まっていました。
その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。
近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。
少し長官が格下で、御所内の区域と門を分担する左右の衛門府、兵衛府があり、武士の名前によくある「左衛門」「右衛門」といった呼称はここから来ています。
五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。
| 現在 | 国名 | |
| 畿内 | 近畿地方中部 | 大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津・山背(794年山城に改称) |
| 東海道 | 東海道地方及び関東地方(北部除く) | 伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸 |
| 東山道 | 中部地方中部及び東北地方 | 近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽(712年に越後・陸奥から分離) |
| 北陸道 | 北陸地方 | 若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡 |
| 山陽道 | 中国地方南部 | 播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門 |
| 山陰道 | 中国地方北部 | 丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・隠岐 |
| 南海道 | 近畿地方南部及び四国地方 | 紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予・土佐 |
| 西海道 | 九州地方 | 豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅(713年日向から分離)・対馬・壱岐 |
また、明治2年(1869年)には北海道が新設されて五畿八道となりました。
| 現在 | 国名 |
| 北海道 | 渡島・後志・胆振・日高・石狩・天塩・北見・十勝・釧路・根室・千島 |
| ▼ | 長いので折りたたみ |
令制国の領域は明治初頭におけるものを基準とした
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尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。
信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。
それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。
よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。
この令制国は戸籍・郵便等の地名表記から外されたことにより急速に廃れましたが、現在も法律上廃止されておらず、駅名や名物の名前などで残っています。
郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。
もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが、名目上親王が守を勤めているため、実質介が最高位者であるが、決して守がないわけではありません)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。
鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。
さすがに戦国時代になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。
武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。)
勘違いされがちですが暴動を起こすことは一揆の中の土一揆であり、一揆=暴動ではありません。
農作業を放棄(ストライキ)して山へ逃げ込む農民もいます
有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。
その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。
この量が多ければ多いほど、その土地、国は豊かであるといえましょう。
たとえば、当時最大の穀倉地帯であった加賀国は「加賀百万石」と称せられ、豊臣五大老のひとり、前田利家が預かっていた国として有名です。
「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。
「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。
しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。
平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。
また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。
足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。
「殿様」はそれらの下の敬称として広く使われました。
「上様」も天皇などを指す言葉でしたが、徳川家康の家臣が日記の中で最盛期の織田信長を「上様」と表現しており、戦国時代には「殿様のその上の人」というニュアンスで使われることがあったようです。
妖怪とは、一般的に日本や中国などの東洋に古来から伝わる怪物の総称です。
様々な種類が存在しており、人間に対しては驚かせたりする程度のものから、命の危険が及ぶようなもの、逆に人間に何らかの幸福を招くようなものもいます。
その正体は妖怪ごとに色々ありますが、山彦などの当時まだ解明されていなかった自然現象、化け狐や猫又のような年老いた動物が不思議な力を得たとされる姿、はたまた土蜘蛛のように朝廷などの体制側にとってアウトローな人々(地方豪族、盗賊など)の暗喩である場合もありました。
また、最もポピュラーな妖怪の一体である鬼は様々な解釈が存在し、魂という字に使われているように死者の霊を差すこともあれば、酒呑童子の伝説のように盗賊であることもあり、赤い肌に虎皮の腰巻きという風体から外国人の隠喩であるとも考えられています。
略奪を行う乱暴者というイメージが強いですが、上記の酒呑童子が罠にはめられた際に「鬼に横道なきものを」と叫んだこともあるように嘘や卑怯を嫌うという側面もあり、仏教においては仏法の守護者として信仰を集めていたりもします。
本作の音響演出を担当。T's MUSIC所属。代表作は『戦国BASARA』シリーズ、『ダンボール戦機』シリーズなど。
本作のドット絵の一部(30キャラほど)を担当。代表作は『千年戦争アイギス』、『テイルズ オブ ハーツ』など。
』)出演(リンク先音量注意) 2016年12月20日に公開された実写PV。ロケ地は日光江戸村である。(ソースは「純血1441話 仮面女子『月野もあ 大暴れ!「御城プロジェクト:RE」 プロモーションムービー撮影風景」)
一乗谷城役。
PV内では逆真空手初段の腕前を披露した。アイドルグループ『仮面女子』のメンバー。
馬場城役。
連続テレビ小説『あまちゃん』、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、『ラブホの上野さん』などに出演。
鳥取城役。
『月の恋人〜Moon Lovers〜』などに出演。
仁木館役。
『最高の離婚 Special 2014』などに出演。
黒川城役。
『轟轟戦隊ボウケンジャー』、『侍戦隊シンケンジャー』、『特命戦隊ゴーバスターズ』などに出演。
水攻めの計略を受けた侵入者役。
『弱くても勝てます ~青志先生とへっぽこ高校球児の野望~』、『「マーベル ツムツム」TVCM 「玄人な2人」篇』、『闇金ウシジマくんpart3』などに出演。
クライマックスの敵役として出演した男性は中国拳法の大会で優勝経験あり。
その他、DMM.comラボの社員らが出演。
Published by (C)DMMゲームズ
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