雷山神籠石 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報雷山・飯原間の山中に築かれた神籠石式山城で、朝倉宮もしくは大宰府を防衛する目的で築かれたとされる説が有力である。(神籠石式山城の詳細は御所ヶ谷神籠石を参考にしてほしい) 近代より方石の配列と古水門の堅固な構造にくわえ、狭い平地や六把石・西南隅の積石から謎多き城されてきた。「神籠石論争」の城郭か霊域かにおいては、まず霊域説から紹介したい。 水火雷神を祀る神社の存在と、列石がほぼ直線状に延び、防壁ないし堤防としての機能を果たしていないという理屈のもと霊域説が当時浮上した。と同時に雷山神籠石内の雷神社と神功皇后を結び付け、霊域であるという主張もあった。 他方、貝原益軒に至っては霊域としての紹介を含みつつも怡土城址の説を唱えている。さまざまな説が飛び交う中、戦後もっとも妥当な説として「朝鮮半島からの襲撃を想定した7世紀後半の防衛施設」説が有力視されている。 近代より方石の配列と古水門の堅固な構造にくわえ、狭い平地や六把石・西南隅の積石から謎多き城とされてきた。 「神籠石論争」の城郭か霊域かは明治より発した論争だが、江戸時代からこの列石は何を意味するのか、神殿・儀式殿などの霊域か城郭かの投げかけはあった。特に雷山神籠石は顕著であった。 水火雷神を祀る神社の存在と、列石がほぼ直線状に延び、防壁ないし堤防としての機能を果たしていないという理屈のもと霊域説が浮上した。 と同時に神籠石内の雷神社と神功皇后を結び付け、霊域であるという主張もあった。他方、貝原益軒に至っては雷山神籠石を霊域としての要素を紹介しつつも怡土城址の説を唱えている。 江戸から明治、明治から大正・昭和と、さまざまな推論が飛び交う中、戦後もっとも妥当な説として「朝鮮半島からの襲撃を想定した7世紀後半の防衛施設」で一旦は落ち着いている。 ただ、あくまで神籠石は歴史書に築造の記録ないしは理由の所在が不明、という点で名称を同じくしているだけであって、すべての神籠石が一つの目的に向かって築かれたとは限らない。
伊覩県主の旧城廃墟説(クリックで表示) 伊覩県主の旧城廃墟説もう一つ興味深いものとして、雷山神籠石を「伊覩県主の古い居城である」とする説が存在する。 見解をまとめると以下のとおりである。 伊覩県主の子孫であると称する代準介翁の自叙伝『牟田の落穂』には下記の記述が確認できる。 「遠キ祖先ハ伊覩県主ニシテ、其居城ハ雷山中腹ニアリ、神籠石ヲ囲ラシタル筒井原ナリ(以下略)」。 伊覩県主の子孫であると称する代準介翁の自叙伝『牟田の落穂』には左記のような記述があり、筒城を古代山城と見れば貝原益軒の怡土城址説は瓦解し、その版築土塁と列石・門礎石の質から列記とした城郭であることも明らか。 よって水火雷神・神功皇后に結び付けた霊域説も崩れる。そうすれば残る説は伊覩県主の居城となる。雷山神籠石を伊覩県主の居城と主張すると同時に、霊域説・怡土城址説ともども婉曲に否定した。 その版築土塁と列石・門礎石の要素から列記とした城郭であることは否定しようがないため、水火雷神・神功皇后に結び付けた霊域説はまず崩れる。 筒城を古代山城と見れば貝原益軒の怡土城址説は瓦解するうえに、大陸式城郭の怡土城と形式も築城年代も大きく異なっているのでこの説はない。 そうすると残るは伊覩県主の旧居城説となる。丸山氏は以上のように雷山神籠石を伊覩県主の居城と提唱、霊域説・怡土城址説ともども婉曲に否定したのであった。 コメント |
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