蕨城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報埼玉県蕨市にあった城。城跡は現在蕨市市民会館・城址公園・和樂備神社の境内になっている。神社の池は水濠の跡であるとされる。 享徳の乱を鎮めるため、長禄元(1457)年 義行の曾孫・渋川義鏡が派遣され、蕨城を拠点に古河公方討伐の兵を募った。 義鏡の要請に応じ翌長禄2年に足利政知が派遣されるが鎌倉城?には入城できず、伊豆国堀越に逗留を余儀なくされた。堀越公方である。 義鏡の要請に応じ翌長禄2年に足利政知が派遣されるが鎌倉には入城できず、伊豆国堀越に逗留を余儀なくされた。堀越公方である。 続きをクリックで表示 この情勢下、義鏡は堀越公方の執事として関東の幕府方(山内・扇谷上杉家)と共同で古河公方に対抗したが、結果として両上杉との間に軋轢を生む。 渋川義堯は享徳の乱・長尾景春の乱で太田道灌と戦陣を共にし、『太田道灌状』でその働きを賞されている。 大永4(1524)年、後北条家の二代目・北条氏綱が武蔵に侵攻を開始。江戸城・岩槻城?が相次いで落城し蕨城も陥落した。 大永4(1524)年、後北条家の二代目・北条氏綱が武蔵に侵攻を開始。江戸城・岩付城が相次いで落城し蕨城も陥落した。 2年後に扇谷勢が城を奪回するが、以降20年近くの間扇谷上杉家と北条家の境界上の城となり、その間で幾度か属する勢力を入れ替える。 天文15(1546)年、川越城の戦い(河越夜戦)で扇谷上杉家最後の当主・朝定が死ぬと蕨城と渋川氏は名実共に後北条配下となった。 渋川義堯の子義基は北条方の武将として活動したが、永禄10(1567)年の三船山合戦(または永禄7年国府台合戦)で討死し蕨渋川氏は断絶。蕨城も廃された。 江戸時代になると徳川将軍家が鷹狩の際に使う御殿として蕨城址が再利用された。また蕨郷一帯は慶長年間に中山道蕨宿が開かれて栄えた。 城郭構造としては堀と土塁を四周にめぐらせた郭を南北に二つ繋げた連郭式。北が主郭でやや小さく、南が外郭であった。 南側の大手口には虎口と馬出を備えていた。城の周囲は沼地と深田に囲まれていたという。
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