武蔵松山城 のバックアップの現在との差分(No.1)

現実の城情報 Edit


【城郭構造】

武蔵松山城は丘陵先端部に位置し、北方から南流してきた市野川が丘陵端にぶつかり、回り込むように西側に大きく蛇行した後に南東に向かう。

城の北から西、南東方向にかけてはこの市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれる天然の要害となっている。

武蔵松山城の曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪が一直線上に並び、それらを取り囲むように笹曲輪・太鼓曲輪・兵糧倉・惣曲輪をはじめ大小様々な腰曲輪が配置されている。

三の曲輪の北東に根古屋虎口が位置し、この虎口の北東側は根古屋だったとされる。

また三の曲輪の南には馬出が配置され、さらに城の南東は「御林」と呼ばれる広大な外郭があった。

それぞれの曲輪の周囲には大規模な空堀と折れをもつ切岸が巡らされているが、各曲輪には土塁がほとんど見られず、各曲輪間の見通しがいい点で比企郡周辺の城の中では特異的となっている。

武蔵の要衝として、後北条氏・上杉氏・武田氏による激しい争奪戦の対象となった境目の城。

源経基や新田義貞らが築いたという伝説があるが、応永6年(1399年)に上田友直が築いたとされ、また15世紀後半から16世紀初頭にかけて扇谷・山内の両上杉氏の抗争のなかで「松山張陣」「武州松山之儀」などの語が見られる。

戦国時代を通じて数々の合戦が行われ、天文6年(1537年)の攻防戦は、武蔵松山城の難波田憲重とこれを包囲する後北条方の山中主膳が和歌問答を交わした、松山城風流合戦として知られる。


武蔵松山城の縄張を見ると、曲輪の折れ、横矢掛かり、馬出などの技法が見られるものの、現地に立つと杉山城武蔵小倉城のような技巧的な側面は強くは感じられず、縦横にめぐる広大な堀の圧倒的な威圧感が何よりも感じられる。

城の領域である丘陵頂部、約2万7000平方メートルのうち、堀と切岸の面積が半分以上を占める。

さらに各曲輪の土塁などを除いた、実際に使用できる平坦面は約9000平方メートルと全体の三分の一にすぎず、大兵力によって備えるよりも、実戦的な城の構造そのものによって守備をするという意図がうかがえる。

広大な堀を活かすためか、二の曲輪の折れをもつ堀を隔てた北側の帯曲輪は幅約5メートル、長さ約50メートルと細長い。

これは城兵が守備する帯曲輪というよりも根古屋虎口方面から二の曲輪へと直線的に侵入させない、また見通させないための巨大な壁のようであり、堀を活かすために曲輪の面積を絞っている様子を見ることができる。
所在地埼玉県比企郡吉見町大字北吉見
現存状態曲輪、空堀、土塁など
城郭構造梯郭式平山城

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