羽柴秀吉と明智光秀による戦いである山崎の戦いで、いわゆる天下分け目の天王山になったことで知られ、天王山城とも呼ばれる。
元々は南北朝時代初期に赤松範資(あるいは弟の則祐)によって築かれたとされ、この頃の林直弘への軍忠状や、文明2年(1470年)の野田泰忠の軍忠状に鳥取尾城として登場する。 また、文明14年(1482年)には細川政元が入城し、『二水記』によれば大永7年(1527年)、管領・細川高国に反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で挙兵し、摂津へ侵攻した際に山崎城を攻め落とした。 『親俊日記』や『兼右卿記』によれば、天文7年(1538年)には、高国を破って入京した細川晴元により改修され、翌8年(1539年)の三好長慶の反乱の際には晴元は京都と芥川山城の繋ぎの城として山崎城を利用している。
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そして天正10年(1582年)6月2日、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により横死した事件、本能寺の変が起きた。 備中高松城攻めの陣中でこの報を受けた秀吉は急ぎ毛利氏との和睦を行ない、いわゆる中国大返しにより畿内に舞い戻ると、光秀との戦支度を進めた。 一方で明智軍は当初、男山城と山崎城に陣取ったが、何故か淀古城、勝竜寺城へと撤退し、その翌日に羽柴軍が山崎城に陣取り勝利した。 明智軍の撤退理由には諸説あるが、俗に言われるような「先に天王山を抑えた方が勝ち」という合戦ではなかったことが分かる。
その後、秀吉は大坂城を築き入城するまでは、山麓にある宝積寺も含めて天守を築くなど城郭として利用し、山崎城に在城したものと考えられている。
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