織田信長による近江支配において、琵琶湖西岸の高島郡を治める拠点となった城。 高島郡は浅井氏の重臣で佐和山城主だった磯野員昌が、信長に降伏したのちに所領を与えられ新庄城に入っていた。 信長は甥の津田信澄を員昌の養子とし、信澄が実権を握るようになっていったため、員昌は天正6年(1578年)に出奔する。 これによって信澄は正式に高島郡を領し、舅の明智光秀の縄張によって新たに大溝城を築き、居城とした。 この頃、信長は安土城を中心とした城郭網を整備しており、安土城の対岸にあたる琵琶湖西岸の大溝城は、北東岸の長浜城、南西岸の坂本城とともに近江支配の一翼を担った。
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大溝城は琵琶湖の内湖である乙女ヶ池の中に築かれ、本丸からは天主台が湖面に突き出し、天然の良好である大溝港を有する、琵琶湖西岸の水上交通を押さえる要衝だった。 光秀の娘婿だった信澄は本能寺の変後に討たれ、大溝城には丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正が代るがわる入り、天正14年(1586年)には京極高次が城主となったが、天正18年(1590年)に近江八幡城に移り、大溝城は空き城となった。 この時、大溝城の建物は一部が解体されて水口岡山城に移築されたと考えられている。
元和5年(1619年)には分部光信が入って大溝藩が成立したが、大溝城は一国一城令によって廃城となり、三の丸だけが残され大溝陣屋として幕末に至った。
平成30年(2018年)3月15日には、滋賀県高島市教育委員会が本丸の南西角に当たる石垣が見つかったと発表し、寛文4年(1664年)の絵図『大溝城下古図』に描かれた石垣の位置関係が裏付けられた。 これに対し、城郭研究家の中井均・滋賀県立大教授は「信長の安土城以降、秀吉の大坂城までの間に築かれた城郭は、ほとんど残っておらず、城郭の変遷の空白を埋めることができる」と評価している。
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