鎌倉時代に遠江久野を本拠とした久野宗仲を祖とする遠江の国衆、久野氏の居城。 久野氏は南北朝~室町時代に遠江守護の遠江今川氏の貞世(了俊)に従い、その後は駿河今川氏に従属し、代々今川方として活動した。 久野城は久野家系図によると明応年間(1492~1501年)に久野宗隆によって築かれたとされ、本丸の発掘調査で明応年間の陶磁器が出土したことがこれを裏付ける。 この時代の久野城は東海道の北側の丘陵に本丸・二の丸・北の丸が構えられたのみで、丘陵の麓までは曲輪が及んでいない小規模な城だった。 久野氏は宗隆の子の元宗、宗経が桶狭間の戦いで討死したため宗能が跡を継ぎ、宗能は今川氏から離反し遠江に進出した徳川家康に従属した。
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やがて遠江には武田信玄・勝頼が侵攻し、遠江の国衆の多くが徳川氏から離れて武田氏についたが、久野氏は一貫して徳川方として戦った。 この時代に久野城は武田氏に対する備えとして大規模に改修され、北の丸北側の大堀切や本丸北側の横堀や大土塁などを築いて弱点である北側尾根筋を補強し、三の丸や東段下など丘陵中腹の曲輪も整備された。 天正18年(1590年)に家康が関東へ国替えとなると宗能もこれに従い、下総佐倉に入った。
代わって久野城に入ったのが豊臣秀吉の家臣である松下之綱で、この時代に久野城は西の丸・東の丸・大手まで大規模に改修された。 またこの時期の瓦が本丸周辺や大手付近で出土することから、本丸の天守や大手の櫓門などが瓦葺きの建物として築かれ、久野城は遠江において浜松城・掛川城・横須賀城などとともに織豊系城郭として改修されたことが明らかになった。 之綱の子重綱は関ヶ原の戦いで東軍について所領を安堵されたが、慶長8年(1603年)に石垣の修築を幕府の許可を得ずに行ったため、常陸小張に蟄居させられ久野藩は一時廃藩となった。
かわって久野宗能が久野城を隠居城として拝領して旧領に復帰し、宗能が慶長14年(1609年)に死去すると孫の宗成が家督を継いだ。 宗成は元和5年(1619年)に紀州藩主となった徳川頼宣の家老となり、伊勢田丸城に移った。 次に城主となったのが保科正直の四男で、玉縄北条氏の北条氏勝の養子となって家督を継いでいた北条氏重で、久野藩が再び立藩された。 氏重は本丸の大規模な破城を行い、天守台は取り払われ、南端の櫓台や西門の虎口も低地の堀土を持ってきて埋め立てられ、丘陵頂部は使用しないという徹底的な破壊が行われたことが発掘調査で明らかとなった。 そして氏重は山麓部分の低地を埋め立てて新たな御殿を築き、戦闘的な城から政庁としての城へと変化することとなった。 これは東海地域から豊臣色の城を一掃しようとした幕府の意向があったと考えられ、久野城は豊臣政権下時代の構造が一新された。 氏重は寛永17年(1640年)に下総関宿城へ転封となったため久野城は横須賀藩の預かりとなり、正保元年(1644年)に正式に廃城となった。
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