頭崎城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報頭崎(かしらざき)城は安芸の国人平賀氏が拠点として用いた安芸国内有数の規模を持つ山城である。 続きをクリックで表示 最初、頭崎城には弘保の嫡男興貞が入ったが、興貞は尼子氏の傘下に入り大内氏に従っていた父弘保や自身の子である隆宗らと対立した。 その隆宗が天文18年(1549年)の神辺合戦において討ち死にすると、平賀氏はその弟である広相に家督を継がせようとしたが、大内義隆が横やりを入れ自身の寵童を平賀隆保として強引に家督を奪った。 その隆宗が天文18年(1549年)の神辺合戦において討ち死にすると、平賀氏はその弟である広相に家督を継がせようとしたが、これに大内義隆が横やりを入れ自身の寵童を平賀隆保として養子に入れ強引に家督を奪った。 天文20年(1551年)に大寧寺の変が起こり、陶晴賢に協力することで安芸・備後の国人をとりまとめる地位の確約を得た毛利元就が安芸国内の大内方国人衆を攻撃し始めると、広相はこれに呼応し頭崎城にいた隆保を攻撃、毛利氏の支援の元落城させた。 隆保は槌山城に逃れて抵抗するも自刃、これを受けて広相が平賀氏の当主となり、以降安芸平賀氏は毛利氏の下で活躍することとなる。 その後も平賀氏の拠点の1つとして精力的に拡張が行われていたが、毛利氏の防長移封の際に廃城となった。 隆保は槌山城に逃れて抵抗するも自刃、毛利氏の支持のもと広相が平賀氏の当主となり、以降安芸平賀氏は毛利氏の下で活躍することとなる。 とりわけ、三本松城の戦いにおいて、陶氏が安芸の国人衆を直接徴発しようと送った密使を捕らえ、これを毛利元就に報告したことは、元就が陶晴賢との対決を決断する大きな理由になったとされている。 頭崎城はその後も平賀氏の拠点の1つとして精力的に拡張が行われたが、毛利氏の防長移封の際に廃城となった。 城跡は頭崎山の山頂付近から麓にまで広がり、とりわけ山頂の本丸にあたる甲ノ丸には、永禄期頃に築かれたとみられる石垣が残っている他、往時の曲輪にあたる削平地が比較的綺麗に残されている。
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