角館城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報鎌倉時代に出羽国仙北郡に進出した戸沢氏が15世紀に門屋城から本拠を移した城で、戦国時代を通じ戸沢氏の居城となった。古城山と呼ばれる標高166メートルの山上に館が置かれ、院内川と桧木内川が天然の水堀となり、北麓に城下町が造られた。 鎌倉時代に出羽国仙北郡に進出した戸沢氏が15世紀に門屋城から本拠を移した城で、戦国時代を通じ戸沢氏の居城となった。古城山と呼ばれる標高166メートルの山上に館が置かれ、院内川と桧木内川が天然の水堀となり、北麓に城下町が造られた。 築城時期は不明だが、『戸沢家譜』によると応永31年(1424年)に戸沢家盛が菅(角館)利邦の角館城を攻め落として入城したとあり、『古実記』をもとにした「戸沢氏系図」では戸沢氏の角館城への進出は文明11年(1479年)の戸沢秀盛の時代とされる。 戸沢氏は「夜叉九郎」の異名で知られる戸沢盛安の代に全盛期を迎え仙北三郡を平定、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣し所領を安堵された。盛安は小田原参陣中に急死し、弟の光盛は盛安の遺領を安堵されたが、角館城を除く戸沢三五館は破却されることとなった。 関ヶ原の戦いの後戸沢氏は常陸国へ転封となり、出羽国には代わって佐竹氏が入った。角館城には久保田城主佐竹義宣の弟である蘆名義広が入城し、戸沢氏時代とは逆の角館城南麓に城下町を移した。 角館城は一国一城令によって元和6年(1620年)に廃城となるが、城下町は蘆名氏・佐竹氏北家が整備を続け「みちのくの小京都」と呼ばれる町並みが形成された。 続きをクリックで表示 角館城は横手盆地の北部、雄物川の支流である桧木内川と東から合流する院内川とに挟まれた独立丘陵状の山地に築かれた。
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