文明年間(1469~1486年)初頭、鎌倉の北出入り口を抑えるため関東管領山内上杉氏が築城したとされる。 永正9年(1512年)以降に北条早雲が大改修を行い、三浦氏攻略の際にはここで三浦義同救援に向かう扇谷上杉朝興を撃破し、新井城の義同を自刃に追い込んだ。 享禄2年(1529年)頃に早雲の次男である氏時が初代城主となったが、玉縄城は最初に取り立てられた小田原城の支城であり、鎌倉の防衛と三浦半島を抑える拠点だった。 天文11年(1542年)に地黄八幡として知られる綱成が三代目の玉縄城主となり、以後も氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が玉縄城主となり、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に開城するまで玉縄北条氏として続いた。 小田原征伐後、関東には徳川家康が配置され、玉縄城も徳川領に組み込まれた。 家康は重臣のの本多正信を玉縄城に入れ、後に松平正綱が入り初代玉縄藩主となった。 元禄16年(1703年)に松平氏は大多喜藩へ転封されて玉縄藩は廃藩、玉縄城も廃城となった。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示