水口岡山城 のバックアップの現在との差分(No.6)
現実の城情報豊臣政権による近江支配の拠点となった、同時期の近江では最大、近畿でも最大級の巨大城郭。 一氏は八幡山城?の豊臣秀次の宿老として長浜城の山内一豊や佐和山城の堀尾吉晴などとともに近江支配の一翼を担い、水口岡山城は東海道を押さえる重要拠点となった。 一氏は近江八幡城の豊臣秀次の宿老として長浜城の山内一豊や佐和山城の堀尾吉晴などとともに近江支配の一翼を担い、水口岡山城は東海道を押さえる重要拠点となった。 続きをクリックで表示 従来甲賀衆の城はほとんどが平地部あるいは尾根先端部に位置する小規模なものだったのに対して、水口岡山城は甲賀郡でも最大規模の独立丘陵全体を城郭化した大規模な山城だった。 水口岡山城では平成24年(2012年)度から本格的な発掘調査が進められ、大手道の枡形虎口で石垣が確認され、大手道に隣接する曲輪でも石垣が発見された。 一氏の転封後に城主となったのが増田長盛で、文禄4年(1595年)からは八束正家が城主となった。 一氏の転封後に城主となったのが増田長盛で、文禄4年(1595年)からは長束正家が城主となった。 『西川家文書』によると大溝城の天守を解体して水口岡山城に移築したとあり、これを裏付けるように水口岡山城では大溝城のものと同笵の瓦が出土している。 『西川家文書』にある花押が正家のものと考えられ、この文書の成立時期が文禄年間以降とされることから、正家の時代に移築をはじめ大規模な改修が行われたと考えられる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、徳川家康はこの地を直轄支配したが、間もなく水口岡山城は廃城となった。 寛永11年(1634年)には徳川家光が上洛する際の宿館として、水口岡山城の西に水口城が築かれている。 一般的にこちらの家光時代の城が「水口城」と呼ばれるが、豊臣期には水口岡山城を指して「水口城」と呼んでいた。 現在の水口岡山城は破城や近代以降の市街地化による破壊のため、不明な部分が多い。
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