梁川城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報桑折西山城以前の伊達氏の居城で、福島盆地北東端の河岸段丘上に立地し、南北を広瀬川と塩ノ川が流れる。特に広瀬川は段丘崖を形成し、後背湿地が城下に広がるなど天然の要害を形作っている。 続きをクリックで表示 梁川城の本丸である伊達氏館は主殿や会所、庭園などで構成され、足利将軍家の邸宅である花の御所?と似た構造となっている。東北において居館で庭園が設けられた例は数少なく、また東昌寺跡には足利将軍家が使用したものと同じ瓦が出土しており、これも東北では伊達氏のみが使用したとされることから、伊達氏が室町幕府との関係を背景に権威を高めていったことがうかがえる。 梁川城の本丸である伊達氏館は主殿や会所、庭園などで構成され、足利将軍家の邸宅である花の御所と似た構造となっている。東北において居館で庭園が設けられた例は数少なく、また東昌寺跡には足利将軍家が使用したものと同じ瓦が出土しており、これも東北では伊達氏のみが使用したとされることから、伊達氏が室町幕府との関係を背景に権威を高めていったことがうかがえる。 その後梁川城は蒲生氏を経て慶長3年(1598年)に会津に入った上杉景勝によって支配され、須田長義が梁川城に入った。 この時代に梁川城はかつての城主であった伊達氏に対抗する城として大きく改修された。『梁川城絵図』には伊達氏館があった場所は本丸とされ、その周囲には堀がめぐり、東には櫓が描かれている。またその場所には野面積みの石垣が残っており、蒲生氏時代、あるいは上杉氏時代のものと思われる。 本丸の東には金沢堀と呼ばれる南北に伸びる大規模な堀が、北には三の丸とされる曲輪が、南には櫻館と記された曲輪が、そして西には二の丸・三の丸が描かれている。これらのことから、伊達氏時代に輪王寺や東昌寺があった金沢堀以東は蒲生氏・上杉氏時代にはあまり手が加えられず、逆に伊達氏があまり手を付けなかった西側は蒲生氏・上杉氏によって開発が進み、町場が形成されていった。 その後梁川城は寛文4年(1664年)に上杉氏が所領の一部を没収された際に幕府領となり一時廃城となったが、文化4年(1807年)に松前章広が松前藩から転封してくると陣屋として整備された。章広は文政4年(1821年)には松前藩に復帰し、これに伴って梁川城も用いられなくなった。
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