「夜叉九郎」の異名で恐れられ、戸沢氏の全盛期を現出した角館城主戸沢盛安の子・政盛が築いた、戸沢氏の新たな居城。 新庄城が築かれることになる最上郡は、天正9年(1581年)に最上義光が制圧し最上氏の領地となっていたが、元和8年(1622年)の最上騒動と呼ばれるお家騒動で最上氏は改易され、最上領は細分化された。 関ヶ原の戦いでの功により出羽国角館から常陸国松岡に移っていた政盛は、旧最上領のうち最上郡・村山郡を与えられて出羽国に復帰し新庄藩を立藩、寛永元年(1624年)に新庄城の築城を開始した。
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新庄城は新庄盆地の中央を流れる指首野川の東岸に位置し、羽州街道の西側に広がる湿地帯に築城された。 指首野川から引かれた水と湿地帯を利用して水堀が巡らされ、本丸・二の丸・三の丸など城の主要部分が沼に囲まれ天然の堀としていたため。「沼田城」「鵜沼城」の別名でも呼ばれる。 また方形の本丸の周囲に曲輪を配置した縄張は、聚楽第型城郭の特徴が見られる。
政盛によって築かれて以降、新庄城は戸沢氏11代約250年の居城となり、新庄藩の藩庁として機能した。 幕末の戊辰戦争の際、新庄藩は当初奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩に同調し新庄藩も同盟を脱退して新政府側についた。 突然の裏切りに同盟軍は激怒し、庄内藩は新庄城に猛攻を加えた。新政府軍の中心だった薩摩藩や長州藩は早々に敗退していたため新庄城は孤立無援となり落城、当時の新庄藩主戸沢正実は城を捨て久保田藩へと逃れた。 庄内藩兵は新庄城を制圧し、その際に放火されたことによって新庄城は焼け落ち、城下町も大半が焼失した。 やがて新政府軍は反撃に転じ、新庄城は戸沢氏の手に戻ったものの、再建は困難だったため廃城となった。
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