岩槻城 のバックアップの現在との差分(No.6)
現実の城情報扇谷上杉氏の家臣として後北条氏に最後まで対抗し、軍用犬の運用でも知られる太田資正の居城。 扇谷上杉氏の家臣として後北条氏に最後まで対抗し、軍用犬の運用でも知られる太田資正の居城。江戸時代以前は岩付城・岩附城とも称された。 文明年間(1469~1486年)に古河公方方の成田正等、あるいは扇谷上杉方の太田道真・道灌父子によって築城されたという。 北から東にかけて荒川が流れ、西には綾瀬川、南には低湿地帯が広がる天然の要害で、築城時に沼一面に竹束を敷き詰めて土を盛ったことから「竹束城」、また低湿地から城を見ると沼に浮かんでいるように見えることから「浮城」とも呼ばれる。 北条氏綱が武蔵に勢力を拡大するようになると、大永4年(1524年)に扇谷上杉朝興の重臣・太田資頼が氏綱に内応して岩槻城を奪取し、これが岩槻太田氏の始まりとなった。 続きをクリックで表示 以後太田氏は後北条氏と扇谷上杉氏との間で揺れ動くが、太田資正は永禄3年(1560年)に上杉謙信の関東に進出してからは後北条氏と敵対するようになった。 永禄7年(1564年)、資正が国府台合戦で里見方として後北条方と戦っている隙に、子の資房(氏資)が北条に内応したため資正は岩槻城を追われ、資房が永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死すると岩槻城は後北条氏の直接支配に置かれた。 永禄7年(1564年)、資正が国府台合戦で里見方として後北条方と戦っている隙に、子の房資が後北条方に内応したため資正は岩槻城を追われ、北条氏康から氏の字を与えられ房資から改名した氏資が永禄10年(1567年)の三船山合戦で戦死すると、岩槻城は後北条氏の直接支配下に置かれた。 その後岩槻城には北条氏政の子の源五郎、次いで氏房が城主となって大改修が進められ、湿地帯に多数の曲輪が増設された。 後北条氏の築城技術の特徴である障子堀も設けられ、また後北条氏の本城小田原城と同じような「大構」と呼ばれる総構を築き、城と城下町は長大な土塁で囲まれた。 しかし天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐で岩槻城は落城し、後北条氏に代わって徳川家康が支配することになる。 江戸時代になると岩槻城は江戸城北方の守りの要として重視され、幕府要職の譜代大名の居城となり明治維新を迎えた。
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