岩屋城 のバックアップの現在との差分(No.8)
現実の城情報立花宗茂の父・高橋紹運が居城とし、島津軍との凄絶な攻防戦の末に城兵が玉砕した岩屋城の戦いの舞台として知られる。 続きをクリックで表示 四王寺山の中腹に築かれた岩屋城は福岡方面から筑後へとつながる戦略上の要衝で、古代から九州を統括していた大宰府を押さえる目的も持っており、また四王寺山の北側には大和朝廷が築いた大野城が位置していた。
嗚呼壮烈岩屋城(クリックで表示) 嗚呼壮烈岩屋城天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏は島津氏に大敗し、衰退の一途を辿った。島津氏は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで村中城主の龍造寺隆信を破り、筑後を制圧した後は筑前に侵攻することとなった。 圧倒的な兵力差ですぐに決着がつくかと思われたが紹運指揮の下で城兵はよく守り、半月もの間籠城戦を展開した。しかし島津軍の犠牲を顧みない総攻撃によって力尽き、紹運以下763人の城兵はことごとく玉砕したという。 圧倒的な兵力差ですぐに決着がつくかと思われたが紹運指揮の下で城兵はよく守り、半月もの間籠城戦を展開した。 7月27日早朝、島津軍総攻撃。屍を越えて押し寄せる島津軍の猛攻で一人また一人と力尽きていく。本丸で指揮をとっていた紹運は、負傷者には自ら薬を与え励まし、死者には経を唱え弔っていたが、島津軍が本丸に侵入してきたため自らが大長刀を奮い奮戦、撃退するも紹運自身も数箇所に傷を負い、配下達も深手を負う。 最後を悟った紹運は扉に辞世の句「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき」としたため、高櫓に登りそこで切腹し果てた。享年三十九 残った家臣は後を追って殉死し、紹運以下763人の城兵はことごとく玉砕したという。 島津軍は岩屋城を攻略したものの被害は甚大で、その後立花山城を攻撃した際には宗茂によって撃退された。 宗茂はさらに撤退する島津軍を追撃し奪われた拠点を次々に奪回、ついには岩屋城をも取り戻した。後に宗茂が城主となった柳川城の「弔い合戦は望むところです!」という台詞はこれを表しているのかもしれない。 現在、岩屋城の本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」と書かれた石碑が建てられており、激戦の舞台だったことを偲ばせる。 なお、生き残った武将もいた。その一人が 落城の数日前に立花山城へ報告に向かっていた谷川大膳鎮実。 立花宗茂に報告をし紹運と共にしようと岩屋城に戻るも紹運達の玉砕後。 そして島津軍に捕縛され総大将・忠長の前に引き出される。 忠長の勧誘を断る谷川大膳。忠長はその毅然とした態度に感動し立花山城へ送り返した 宗茂に岩屋城の落城を報告する谷川大膳。 その様子に不穏な気配を感じた宗茂は彼の肩に手を置き 「大膳、お主が追い腹を切るというならそれは犬死でしかない。父上も喜ばれないだろう。 これから私は島津軍と戦になるだろう。だから自分に仕え我が馬前で死んで欲しい」 その言葉を聞いた谷川大膳は号泣しその後の生涯を宗茂への忠節に捧げ 立花家の兵学師範となった。 隠居後は剃髪し『立心』を号し、岩屋城で散った主君、同僚達を弔いながら過ごした コメント |
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