守谷城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報日本三大怨霊の平将門が建てた砦を拡大して城となった。 相馬中村城の陸奥相馬氏と同族で、相馬氏の宗家にあたる下総相馬氏の居城。 続きをクリックで表示 古河公方足利晴氏の後継者をめぐり、簗田晴助らが擁立する足利藤氏派と北条氏康が擁立する足利義氏が対立すると、下総相馬家中も両派に分裂し、若年の当主相馬整胤に代わって藤氏派の晴助の支援を得た高井治胤が実権を握り、のちに相馬治胤として下総相馬氏の当主となった。 「芹澤文書」によると後北条氏は芳春院周興などを派遣して守谷城を接収し、永禄11年(1568年)には北条氏政が普請を命じた。 北条氏照は栗橋城を下総での主要な拠点とし、再び簗田氏の関宿城を攻撃した。この頃の下総相馬氏の動きは明確でないが、すでに簗田氏の影響下から脱して後北条氏との関係を維持し、守谷城も後北条氏の支配下にあったと考えられる。 北条氏照は栗橋城を下総での主要な拠点とし、再び簗田氏の関宿城を攻撃した。この頃の下総相馬氏の動きは明確でないが、すでに簗田氏の影響下から脱して後北条氏との関係を維持し、守谷城も後北条氏の支配下にあったと考えられる。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、相馬治胤は小田原城に入っており、守谷城は豊臣方の浅野長政によって落城した。 小田原征伐後に下総相馬氏は改易となり、守谷城は新たに関東に入った徳川家康の家臣・菅沼定政(土岐定政)に与えられた。 その後の下総相馬氏は一時断絶するが、相馬政胤が徳川秀忠に旗本として仕え、相馬郡に1,000石を与えられて再興を許されている。 守谷城は守谷藩の藩庁として土岐氏・堀田氏・酒井氏の居城となり、城下町は整備されたものの主郭部にはこの時代の改修が確認できず、酒井氏が去った天和元年(1681年)に廃城となった。
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