守谷城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報相馬中村城の陸奥相馬氏と同族で、相馬氏の宗家にあたる下総相馬氏の居城。 続きをクリックで表示 古河公方足利晴氏の後継者をめぐり、簗田晴助らが擁立する足利藤氏派と北条氏康が擁立する足利義氏が対立すると、下総相馬家中も両派に分裂し、若年の当主相馬整胤に代わって藤氏派の晴助の支援を得た高井治胤が実権を握り、のちに相馬治胤として下総相馬氏の当主となった。 「芹澤文書」によると後北条氏は芳春院周興などを派遣して守谷城を接収し、永禄11年(1568年)には北条氏政が普請を命じた。 北条氏照は栗橋城を下総での主要な拠点とし、再び簗田氏の関宿城を攻撃した。この頃の下総相馬氏の動きは明確でないが、すでに簗田氏の影響下から脱して後北条氏との関係を維持し、守谷城も後北条氏の支配下にあったと考えられる。
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